くっきりと安曇野の光の中で

山の仲間が創りあげた高原の 舎爐夢(シャロム)ヒュッテを訪ねて 

  1980.SAISON ルポルタージュ
      撮影奥谷仁 文 大川邦之

いま、水篶(みすずかる)信濃の安曇野は若草が萌えている。
その一隅に、神が放った光と風に祝福された1件の小屋があった。
小屋の名は「舎爐夢(シャロム)ヒュッテ」ヘブライ語で平和という意味だ。
北アルプスの山小屋で小屋番をしていた男 その仲間たちが礎を築き 
木を刻んで作り上げたものである。
造作は少し無骨でも、それには確かさと暖かさがあった。
昨今、人びとは額に汗し互いに協力し合って一つのものを作るということを
忘れかけているように思えるが、
その小屋は、それを訪れる人々を覚醒させ、さらには豊かな安息を与えてくれるのだった。

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唐松林のバックコーラスを背に、バリトンのソロを歌う舎爐夢(シャロム)。
聴衆は咲き乱れる花々とあなただ。

古代民族の壮大な旅路のはてに

安曇野は、信州、松本平の北の、西をアルプスの山岳と、東を大峰をはじめとする低い山並みにはさまれた地に南北に広がっている。
北アルプスの急峻な峰々から、谷を伝って押し流された土砂が、狭溢な谷から解放されて、野にでて生んだ扇状の大地が、ここにはいくつも見られ、安曇野の多くを占めている。それ故、安曇野の大地は、砂礫まじりで肥沃ではない。その上、ひどい寒さが、この地には居座るのである。しかし、安曇野の人々は、この過酷とも思える自然の中で、はるかな理想に燃えて、土地を耕し、生へ糧を得てきたのであった。

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水の張られた安曇野より常念岳を望む

古代、九州北部に海神(わたつみのかみ)始祖とし、漁(すなとり)りを業とする安曇氏という一族がいた。彼らはその信仰の対象として、瑪瑙(めのう)で作った「玉」を、重んじていた。
安曇氏の一派は、ある日、この瑪瑙を求めて、東へと移動を始めたのであった。中国地方から、今でいう近畿を抜け、その一部は、琵琶湖を北上し、日本海に沿って東北に向かい、他は、太平洋沿いに東進したといわれる。

日本海の集団は、やがて現在の新潟県糸魚川で姫川に出会い、この川で瑪瑙が見つかることを知り、姫川を南へと遡り始めたのである。そして、彼らはこの川をのぼりつめたはてに、ある平野にたどり着いたのだった。
太平洋沿いに東進した一派は、伊豆半島近くまで進んだといわれている。愛知県の渥美半島、静岡県の熱海は、アヅミが転訛した地名であるといわれている。
興味深いことに、静岡の「・・・ズラ」言葉が、安曇野でも、少々の違いはあれ、話されているのである。

荘厳な山を昇る朝日を見つめて


昭和24年4月3日、この安曇野にひとりの男子が生まれた。色浅黒く、眼光は幼子のそれにしては鋭かった。安曇野の舎爐夢(シャロム)ヒュッテの主、臼井健二の誕生である。

健二は安曇野の自然の中で、すくすくと育ち、長して名古屋の大学て商学を修め、故郷に戻った。花の都のサラリーマンになリたいとも健二は一時思ったが、安曇野が彼を呼び戻したのだった。
それは、都会にはない峨々たる北アルプスの山々や、水清き安曇野の風物のせいばかリではなく、はるか昔の、この地の先住民族の魂が健二を呼んだのかもしれない。「ガラずきの一番電車に乗ったとすると、人は皆、隅に寄リたがリます。ぼくにはそのすみっこ、即ち北アルプスという壁面が必要だったのですよ」と健二は淡々とこう言うのだったが。
山項の朝は早い。はるか雲海の彼方に昇る朝日は、1日の始まリというよリは、もっと、壮厳な宇宙の黎明を思わせる。
ある夏の朝、北アルプス、大天井岳(海抜2992メートル)の頂で健二は昇る朝日を見つめながら、ある決心をした。

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朝日が、荘重に今日という時刻(とき)を運んできた。誰が主役ということもなく、人々の協力によってできあがったこのヒュッテに、神はやわらかなまなざしを贈ってくれる。

健二は大学を卒業して、安曇野の穂高町の町役場に勤務し、その時、自らの意志で、夏のシーズン中、大天井岳の肩にある町営の、大天荘(だいてんそう)という山小屋の管理人として働いていたのだった。健二は北アルプスという壁に寄リかかることに満足せず、それを登ってしまったのだ。そこで生活をするうちに、彼は自分の手で、小屋を作るという次なる行動の決意を、発酵させていたのだった。5年間小屋につめている間に、健二の人間性にひかれた登山客は多かった。彼の秘められた意志力、そして遠大な彼方への理想、実行力、それに他人に対するい思いやりが、人々を健二の回リに蝟集させた。

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厳冬の大天井岳を登る  北アルプス穂高連峰大天荘小屋番の頃 

理想的なヒュッテ建設のプランを練る


健二は昭和53年、山小屋生活をおえて、町役場を退職、ヒュッテ建設の準備にかかった。幸いなことに、北アルプスの山麓の安曇野の一角に1800平方メートルほどの土地を以前、健二は確保していた。彼は山の仲間とアイデアを出し合って、ヒュッテの建設プランを練リあげた。

その緒果、建築面積214.5平方メートル延べ448.8平方メートル、地下−階、木造2階建てで、1階には食堂、談話室、風呂、シャワー、トイレ、地下には工作室、自炊室、1階の一部と2階は客室、というプランが出来上がったのだった。
これだけの建物はどうしても健二はほしかったが、軽く見積っても1億円近い資金がこの建築には必要だった。自己資金はとうていこれには及ばない。かといつて、金融機関をたよリにすると、その返済に追われるため、経営が営利本意になってしまうおそれがある 健二は、そこで『舎爐夢(シャロム)の会』という会を作り、昔の山仲間を中心に会員を募ってヒュッテ建設の協力をあおぐことにし、建築も自分たちの手てすることにした。「山の仲間はあリがたいものです。昔の大天荘時代の知人に、協力のお願いの便りを出したら、予想外の反響があったのです」と健二は語る。

自分たちの手で、ヒュッテを作るのだ


資金はもちろん、手弁当の建築労働奉仕を申し出る人もいた。昭和52年3月、工事は遂に着工されたのだった。健二自身はもちろん、山の仲間が汗みずたらして働いた 中には毎週末、東京から手伝いに来る人もいた。基礎工事は専門家にどうしても頼らなくてはならなかったが、他は大工さんの指導をうけながら、できる所はすべて、自分達の手で鋸を引さ、土をこねて建設にはげんだ。

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手堀の基礎工事 左より小川、清水、萬井、斉藤さん


払い下げを受けた木材を、近くの山から、運び出す時も、健二とその仲間たちが肩にかついで搬出した。
冬の寒さが厳しいこの地で効率のよい暖房をするには、床暖房がよい。だが、業者に工事を依頼すると、ばく大な資金が必要である。これも、熱湯を通す配管工事、そしてコンクリート固めと、すべて自分たちですることにした。
ヒュッテの室内の壁は、漆喰のラフこて仕上げであるが、これも砂や水の調合の失敗を重ねながら、こつこつと塗り上げたのだ。 

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山男大活躍 近くの山で丸太を切り出して皮むきをし運搬は川を利用する。


この白い壁によくマッチする濃茶で、すべての柱、梁は塗装されている、そして、それらにはほぼ等間隔で、斜めに手斧風の刻みが入れられている。電機かんなを、木材の面にほぼ等間隔でおとして、刻みを入れたものだ、、玄関には丸太の木レンガが打ち込まれている。これをはじめ、ベランダの手すリの腰かけ、窓のすぐ外にしつらえられた木の花台、細い丸太を二分し、それをくリ抜いて作った雨樋など、健二とその仲間たちの創意と工夫がヒュッテの至る所に見られる。ホールには自然木の通し柱が、床から天井ま、てそそり立って、自然感覚のインテリア、イメージを作リあげている。「これを山で伐採し、川を利用したりして運び下ろし、皮をはいで磨きをかけたころが、いちばん大変でした」健二は、その頃を思い出すようにして、その柱に手をふれながらこう話してくれた。

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 かけやを振るっているのは臼井さん 壁塗りは杉本、槌谷、長岡、さんすっかりプロ級になった。

大工ひとりにバカ8人というけれど


「大工さんに、建築中、いろいろ指導してもらいました。作業を進めていくうちに、大工さんも、すっかリぼくらの仲間みたいになっちやって でもやはり先生は先生、教えられたことが数えきれないほどあリました、どうしても、ぼくらはイメージが先行してしまって、窓や、戸の雨じまいに欠陥があったり、梁の支えに問題があったリ、道具の使い方を知らなかったリしましたが、よく指導してもらいました。やはり大工ひとリにバカ8人ですよ」

大いなる夢と、理想を持ちなからも、健二は、着実に、それの完遂への地歩を固めていくことに、冷静てあリ、さらに何にもまして謙虚であった。

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建設中休憩のひととき 


「上水道の配管工事も自分たちでやったんですよ。ここは穂高の町中からかなリはなれた辺地ですし、扇状地の上部、即ち扇頂に近い所ですので、湧水も期待できません。幸い近くの別荘地に町の水道がきていたので、そこから水を引くことにしたのですが、近くといっても、その先端からここまで、約数百メートルほどもありました。これも、延々と溝を掘って、工具や材料を仕人れて皆でやったんですけれど、工具の仕入れをしようにも、最初はその名前も分からす悪戦苦闘の運続でした。寒冷地なので、溝もかなリ深く掘らなければいけませんでしたし。でも配管工事が終わったあと、おそるおそる蛇口をひねったら、ややあつて、バツと水がほとばしリ出てきたときは、ほんとにうれしかつた」素人に、こんな水道の配管工事や床暖房 建築工事ができるなんて、思ってもいなかったと述懐する。 

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建設途中の舎爐夢(シャロム)ヒュッテ


そして、1979年8月、3年がかりで12の客室を持つ定員30人のヒュッテが完成した。「思えば、あの大天荘の小屋番をしていたころにロッジ建設を思いたってから5年、長いようで短い日々でした、そして、恥も知らずに、クラブ組織を作リ「預リ保証金5万円以上、5年後に退会の人にはは無利子でこれを返済、ただし年間 5000割引券−枚と、1000円割引券5枚をサービスする」なんて規約を作って、図々しく資金集めをしたりして。でも沢山の人が協力してくれて2500万円が集まったのです。信じられないくらいです。」


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いまも脈打つ安曇族の血潮


誰もむやみに、大事な金を人に貸すことはない。これは、臼井健二というひとリの人間が、それだけ他人に信用されている男であるという確固たる証拠なのである。健二のある友人はこう言った。
「強い意志を胸に秘めながら、やさしさとロマンを持つ臼井さんにまいっちゃう、資金の面でDo it our selfにしたと彼は言うけど、彼は汗かいて働くことが好きなんですよ」
健二は今、2歳になる娘と妻、数人の居候とヒュッテで生活している。彼等に対する思いやりと、訪れるゲストに対する思いやりが完全に一致している。時とすると、山仲間にあリがちなアクの強い排他的雰囲気がここには感じられない。

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古代、瑪瑙(めのう)を求めて、困難な旅路のはてにこの地にたどリ着いた、安曇族の首長の血が健二に、滔々(とうとう)と流れているような気がした。「このヒュッテは、ぼくがひとリて作つたものじゃあリません。皆が汗をながして力を合わせ作ったものです。でもすっかリ完成したものではあリません。まだまだこれからです」という健二の話を聞いて、画家、ミレーの『人間は、額に汗する労働によってのみ、原罪を償える』という言葉が思い出された。

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