インド子連れ旅日記 その6    臼井朋子

今回は神様についてです

インドでは、ごくあたりまえに神様が身近にいたる所におられます。シバ、クリシュナ、ラーマ、ブッタ 毎朝どこかしらお祈りの音楽がスピーカーでにぎやかしく流され、車にはそれぞれ神様のステッカーがはられています。小さな祭壇を備えたタクシーもありました。

小さな子供が「これ神様ね」と神様の絵を書いた絵葉書を売りに寄ってくるし、レストランにも神様の絵が張ってあります。ゴアはポルトガルに占領され、キリスト教徒の多い所でしたが、やっぱり日曜日には 教会にたくさんの人が集まり、私達の泊まっていたゲストハウスでも家族と従業員が毎日集まってお祈りをしていました。
ヒンドゥー教の聖地と呼ばれるリシケシ、バラナシにも行きましたが、インド各地から巡礼のため、多くのインド人が集まっているのは驚きでもありまた。ガンガーで沐浴し、朝日に向かって手を合わせ、祈りをささげる姿は、感動させられるものがありました。初めてそういう姿を見た時には、どうしてそこまでするのだろうとわからない思いも多分にありました。
でも自分がサイババに逢い一心に祈り 手を合わせて拝んだ時、少しだけあのインド人の気持ちがわかったような気がしました。
アシュラムの人達は、みんな優しく、ババが「奉仕は最高の霊的修行である」と言われているだけあり、子連れの私にも、食事の列を先にしてもらったりベビーカーを持ってもらったり多くの恩恵を受けました。祈りの歌、神をたたえる歌をうたい、ババの姿を見ることで、心が優しくなっていくのを感じまた。サイババが神であるか、神が存在すると言うことがわからずとも信じたほうが私は平安でいられる。そう思っています。
私はサイババに会って、ババの教えを知り、確実に自分が変わってきたことを感じます。そして自分が変わればまわりが変わり、良き仲間に恵まれていくような気がします。
神は別にサイババでなくても、イエスキリストでもブッタでも天照大神、なんでもいいのだと思います。ただ私達の認識を超えたはるかに偉大な力が働いていること、それによって私達が生かされていることを感じることが大事だと思います。そしてその神の力は愛に満ちていると信じることが大事です。その思いが私達を幸せに導いてくれます。

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 今回の旅でアガスティアの葉という4500年前に個人の未来が書かれた予言書を見る機会に恵まれました。それは何年かごとに書き写され、ヤシの葉に書かれて保存されています。それを探して読んでくれる所があると聞き出かけたのでした。
まず指紋を取りそれから自分にあった葉の束を探してきて、一枚ずつ「あなたの生まれた年は1950年ですか」「お父さんはあ行で始まりますか」等の質問をしながら自分の葉を探していきます。
3束目のある時どれもイエスの質問が続き、両親の名、自分の名前が出てきた時には驚きでした。
それはあなたは34になろうとしていますで始まり、両親、兄弟、子供の数、自分の生年月日、現在の状況、未来に起こるできごと、人生の流れ、そして死ぬ時までが書かれてありました。
どう考えても、読み手に何も情報は与えていないし、これは神業としか考えられない、つまり、私がここに生まれ、今生きているのもすべて神の御業だったことを確認させられたのだと思いました。そう考えていくと、あの時 ああしていれば良かったと思うことも、すべて、今、私が生きていく上で必要なプロセスとしての選択であったのであり、これからも、こうあらねばと自分がすべて決定しているのだという気にならずとも、神の計らいで全てがうまくいくのだと思えるのでした。

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アガスティアの葉には未来について書かれていますが、悪いことについては、それを避けるために神に祈りなさいと お寺参りやお祈りの仕方などの処方箋まで書かれています。これを実行するために変わりにいくらでやってあげるというのはちょっとうさんくさい気もしました。でもきっと自分がどんな形でも神を思い祈りをささげれば未来はきっと良くなるのだろうと思います。そして、神というのは、私達個人にも宿っているのだから、自分の光を輝かせる事、愛、良心の部分を大事に育てていけば、きっと明るい未来が開かれるのだと思っています。今を大事に、神の意志を信頼して、それを感じながら生きて行きたいと思いました。
            
 

「神は偏在している。宇宙は神の体である。すべての生きもには、神の衣服である。神は各人の裡に常に存在する。神は一切の出来事をじっと見守っていられる。神は空間と時間に充満するエネルギーであり、原因結果として顕現するエネルギーである。」

「愛は神であり、神は愛である。愛のあるところ、常に神は存在する。人々をもっともっと愛しなさい。その愛を奉仕に変え、奉仕をさらに神を崇める気持ちまで高めなさい。それこそ最高の霊性修行である。」

「毎日を、愛を持って始め、愛を持って送り、愛を持って終わりなさい。それが神に通じる道なのです。」

BABA

インド子連れ旅日記 その7       臼井朋子

今回はインド病院めぐりについてです。
今回のビックハプニング。それは家族そろって水疱瘡になってしまったのです。まず仁君から、サイババのアシュラムでのこと 朝起きて体に水泡ができているのに気づいたお父さん。私はとびひにでもなったのかと思い、抗生剤を塗ってた方がいいし、まあ病院に行ってみるかということにしました。サイババのアシュラムでは病院がありすべて無料です。これは帰依者の寄付によって建てられたもので、サイババは教育と医療は無料でうけられなければならないといわれています。そんな訳で、愛美の下痢もついでに見てもらおうと気軽に出かけました。その日はアシュラムのスタジアムでクリケットの試合が行われていて(インドではクリケットはすごい人気なのだそうです)病院もお休みでしたが、緊急医がいて見てくれました。水疱を見せると「熱はないか、いつここに来た、いつまでいるのか等」詳しく聞かれるので???でいますと“チキンポックス”“オーマイガット”と仁を抱きしめどこにも行かないで部屋にいるのよと言われました。チキンポックスのわからない私たちは辞書を引いてやっと納得。水疱瘡、解熱剤、かゆみ止めの薬をもらって、飲み方を聞いて、次に愛美を見てもらいました。

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愛美の下痢は、初日、夜も寝られずにトイレ通いで熱もあり、まずアーユルベーダの病院に連れていっていました。インドでは 古代からの伝承医学アーユルベーダがまだ息づいており マッサージや薬を売っているのをあちこちで見かけましたし リシケシのアシュラムでは西洋の病院とアーユルベーダの病院が同格で用意されていました。アーユルベーダの病院ではまず脈をみて、おなかを触って問診がありました。私の語学力では症状を伝えるのがやっとで、アーユルベーダの詳しいことはなかなか聞けなくて残念でした。さてアシュラムの病院では、問診のあとすぐ薬を出してくれました。日本では滅多なことでも病院に行かない私達ですがサイババのアシュラムでは神様がついているから安心みたいな心強さがあり、解熱剤もはじめだけ飲ませてみました。そうして、2,3日すごい発疹と高熱とかゆみで苦しんだ仁君もやっとおさまり、出発を延ばして完治し、アシュラムを去ろうという日の朝、愛美の体に水疱瘡が....これはやばい!!飛行機は変更不可のチケットだけれども何とか延ばして治してから帰った方がいいのでは、むりして他の病気を併発したら、と言う不安がよぎりました。とりあえずダルシャン(礼拝)へ出かけ日本の人に相談すると病院についていってくれるということになりました。今度は、通訳付きで、心強く病院に行くと、病院でもサイババの祭壇の前でバジャン(お祈りの歌)が行われていました。

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小児科で待っていると幼い子を抱えたインド人が続々とやってきました。心配そうな表情はどこの国でも一緒 やっと先生が来てみてもらいました。今からここを去るので心配だということも伝えましたが「水疱瘡だから薬だしとくね」ということで処方箋を書いてもらい薬局へ、薬局では、なんと下痢止めと、解熱剤と水疱瘡の薬を全部まとめて一つのビンに入れてしまったのです。私は外で待っていたので知らなかったのですが、付き添いの彼女は、それはひどいとまた先生に聞きにいき薬局にも抗議してくれたのですが水疱瘡は熱もでるものだと解熱剤と水疱瘡の薬はまた一つにされてしまいました。病院でも旅行の事は何も言われなかったしお父さんも移動して何とか帰ろうというので、午後の飛行機に乗りました。心配したものの 愛美の方はいたって元気でふだんと変わらずボンベイに到着。インド最後の夜だからと奮発して高級ホテルにチェックイン。海岸で遊んで、その夜 私の体が熱っぽくだるく水疱瘡が...実は 私は幼い頃水疱瘡をしていない気がしておそれてはいたのですがまさか本当にかかってしまうとは.....何とかしたいと全日空に電話を入れてみるのですが営業時間外で通じず、空港オフィスにも通じずあきらめて翌日、夜の便に乗るために空港に行きました。そして、チェックインカウンターで水疱瘡でしんどいので配慮してほしいと話をすると、ちょっとお待ちくださいが永遠に待たされることになってしまったのです。私はただシートを離してとってくれるのではくらいのあまい気持ちでいたのですが、日本人のマネージャーがでてきて「日本の検疫とも連絡を取ったところ他人に移る病気なので渡航にはふさわしくないということで、今回は帰国を見送っていただいて、直ったという証明を病院でもらってから飛行機に乗ってください」と言われてしまいました。そして、ホテルと病院を紹介してもらい、出発カウンターから、とぼとぼとまたボンベイの街へもどっていくのでした。後で聞いた話ですが、その便は整備不良で遅くまで待たされたあげく ついに飛ばずホテルに返され 翌日他の便に振り替えられ、何とか出国したということで、私達は不幸中の幸いだったということでした。さてホテルは、さすが全日空で紹介されただけあって今まで泊まったこともない日本以上のきれいなホテルで 料金もそれなりですがえらく満足してしまいました。翌日紹介されたプライベート病院に行ってみるとまたまた日本以上にきれいな大きな病院でびっくり、しかしカウンターでいっていることがよくわからず途方にくれました。後でもう一度聞くと小児科はないらしく近くの病院を紹介してくれました。

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紹介された市民病院はインド人でごった返していました。 受付で聞いても、あっち行け、こっちいけで、ようやくたどり着いた小児科の先生にみてもらうと、なんと、3週間はだめで、証明は、その後でしか書けないというではありませんか。その病院でも かゆみ止めと飲み薬ビタミン剤をもらってホテルに戻り、ああこれは、きっと神様からの贈り物、インドにいて充分休養しなさいということなのだろうと思い直し、もうしばらくインドを楽しむ決心をしました。幸い愛美の水疱瘡は軽く、私の方はホテルでごろごろしていると体の方は楽になり、さあどこかで遊ぼうかということになり、とりあえず郊外ということで ボンベイ北のビーチに出かけました。そこは5星の高級ホテルしかなかったのですが 市内より安くプールもあり景色も良く、部屋も最新式、料理もおいしく最高。子供の公園もあり、仁は大喜び。そのころには水疱瘡のお陰でしばらくはインドで遊べるとすっかり心は旅人にもどっていました。

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でも もっと田舎で安い所に行こうとゴアまでの飛行機を手配して、ぶつぶつの顔を隠して飛行機でゴアへ向かいました。ゴアは椰子の木が並び 美しいビーチの南国楽園リゾートです。ここでは身分相応の安くて、いいゲストハウスも見つかり楽園気分。アラビア海に沈む夕日を眺めてのんびりできました。  

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水疱瘡もすっかり良くなって 海に入って遊べるようになりました。しかし、問題は病院の証明書 しばらくゴアで遊んでからゴアの病院に行きました。何も知らずにタクシーで連れていかれたところは州営の大きな病院で、やっぱりインド人で一杯、何とか小児科にたどり着くとちょっと待てといわれるがなかなかみてもらえず 他の子の様子を観察、ほとんど問診で処方箋を書いているみたいでした。やっと先生が来て、説明するとすぐ証明書を書いてくれて一安心。支払ったお金はカルテを作るときに払った10ルピー(35円)だけでした。実は私はインドでもネパールでもタイでも病院でお世話になったことがあり、どこでも診察と、薬局は別で、カルテ代ぐらいでお医者さんに払うお金はなかったように記憶しています。インドのシバナンダアシュラム(ヨーガ道場)の病院ではすべて無料で、虫さされとピアスの穴をあけて化膿してしまったのをみてもらい、ネパールでは熱から中耳炎を起こし日本の寄付でできたという病院へ行き、続いてタイでもみてもらいました。全日空の日本人マネージャーは州営や国営の所は、ものすごく安いので、いろんな病気の人が来るので、かえって悪い病気をもらいそうなのでといって、いい病院を紹介してくれましたが、実際無料の病院では足のない人、皮膚がずるずるの人、真っ赤な目をした子供を見て、かなりショックでした。日本の病院は衛生管理がしっかりされていて、その点は最高ですが、どうもインドの病院と比べると、一般的に日本の医療は金儲け的な感じを受けてしまいます。
インドで水疱瘡になり、多くの体験と おもいがけない休養ができたことに感謝してこの文を終わりたいと思います。

インド子連れ旅日記 その8  臼井朋子

妊婦さんのインド旅行、プラスおまけの出産体験記です。
98〜99年冬のインドネパールの旅は、妊娠6ヶ月という体で出かけました。旅行計画中にわかった妊娠。親からはやめとけコールもあったけど、3人目ともなると、生まれてからの方がうんと大変だとわかっているし、3人の子供を連れての旅行は、いつになるやら難しいだろうと強行しました。
というわけで今回旅行の私のテーマは休養。
ネパールでは ネパールに嫁いだ元シャロムスタッフの順ちゃんのゲストハウスで、ひなたぼっこの毎日。インドもすべて行った事のある所で 旅行のストレスはあまり感じないようにしてきました。
みんなに 良く妊婦で行ったねと言われるけれど むこうに行けばもっとすごい人がいるわけで インドで夫婦2人で出産して、生後4ヶ月の子供を連れて旅をしている日本人夫婦、やっぱり赤ちゃん連れのネパール人と日本人の夫婦、つわりで激辛の物が美味しいよと言っている妊婦さんは3歳の子連れ、自由で楽しい人達に出逢いました。
日本に帰ってきてからやっぱり妊娠中にインドに行った友人曰く「飛行機に乗るのに妊娠の証明がいるんだよ」私はそんなことも知らずに旅をしていました。
むこうでは パンジャビドレスという インド人の若い子がよく着ているひざたけまであるすその広がった長いブラウスに ウエストはひものだぶだぶズボンという民族衣装を着ていたので、あまり妊娠しているとは思われなかったかも知れません。体調の方は いつもなら、必ず一度はひどい下痢にみまわれるのに今回はいたって元気で、3sも体重が増えて帰ってきました。困ったのは愛美のだっこ攻撃とトイレが近いという問題でした。なにしろインドできれいなトイレに恵まれることはまずないのですから。

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そんなおなかの中で、インドにまで行っちゃた赤ちゃんの出産は.........
それは、予定日より20日も早い4月29日のアトピッ子の会の真弓先生の講演会の日 真弓先生のお世話をさせていただいて、先生が帰られるので挨拶をしているときなにやらおなかがおかしいぞと、でもまだ生まれるはずはないんだけどと思っていました。ところが先生が帰られてから、おそってくる痛みは陣痛に違いない。私の様子のおかしいのに気づいて騒ぎ始めた周り。たまたま居合わせた友人の車で、助産院ウテキアニに直行。同行してくれた一人は、やっぱりウテキアニ助産院で生まれた1歳半の子供をおんぶして、私の腰をさすり、気を送ってくれ、私の方は、車のシートにしがみついて、大声でうめきながら、ほとんど休みなく、おそってくる陣痛をやり過ごしているのでした。そして、波田から穂高まで30分、途中で破水。どうにか助産院にたどり着いて、ものの10分。へその緒が首に絡まっていたらしいけれどするりと生まれてきたのでした。2550グラムの男の子。予定外の超スピード出産で私も周りもびっくり、一人目二人目は夫婦2人の自宅出産で、今回は家族に見守られて助産婦高橋さんの助けも借りての安心と感動のお産をと思っていたのですが 立会人は友人達。助産婦の高橋さんにも私の知らないところで連絡を取ってくれ、準備して待っていてくれと、私も解放された気持ちの中でよいお産ができました。波田で見送ってくれた仲間達もありがとう。名前は誠です。ちなみに前述したアガスティアの葉(インドにある個人の予言書)では子供は2人と言われ、しかしこの子がお腹にいて、いったいこれは、どういうこと、仁は泣き出すし、私も不安におそわれたりしましたが、すべて神の御業と、神を信頼して、今この子がここにいます。神様からのプレゼント 誠君は、私達に何を学ばせてくれるのでしょう。インドの占星術では 生まれたときの星の位置で、その人の人生の流れはほぼわかると言われており きっとこの日を選んで私達の元にやって来たのでしょう。シュタイナーでも 子供は両親を選んで産まれてくるのだと言われており 彼の今生での人生の目的に寄り添っていきたいと思います。

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1999年4月29日 
男の子、お誕生 おめでとうございます。予定よりも、早すぎる出産で大変でしたね。次にお会いする時は、ベイビーのお顔拝見できるのを楽しみにしています。今宵の美しい満月が、赤ちゃんをよんだのでしょうか?
桂子より
かわいいかわいい赤ちゃんの誕生ほんとうにおめでとうございます。
ウテキアニに向かう車の中で赤ちゃんも朋子さんもよくがんばったと思います。揺れる車での陣痛は耐え難いものがあると思いますが,朋子さんの強さを感じました。小泉さんも私もハプニングとはこのことかと,思いがけなくついに出産のおめでたい席に立ち合うことになり,沙也をおんぶして,貴重な体験をさせていただきました。小泉さんも言葉に表わせないくらい生命の誕生のすごさに感動していました。赤ちゃんの名前決まったら早く呼びかけながら再会したいです。子宝,お宝朋子さんも赤ちゃんを胸に最も幸せな時を味わっていることでしょう。明日またファミリーでゆっくりと赤ちゃんとすごせる時がもてますように。        高橋  喜代
有難うございます。私は全く知らずに4時頃帰ってきたら生まれたという知らせでした。仁の時も愛美の時も2人だけの出産だったので今回は証紙抜けです。友人達に囲まれての安産で何よりでした。今度は3児の母としてお会いできると思います。名前は誠になりました。臼井家そしてシャロムの一員としてよろしくお願いいたします。        臼井健二

インド子連れ旅日記 その    臼井朋子

今回はアトピーについてです。
そもそも まだ1歳になったばかりの子供を連れて、インドに行こうと思ったのは、愛美のアトピーが原因でした。何しろその頃 いつも湿疹で真っ赤な顔をして、食物除去は 大豆、小麦、油、味噌、醤油もだめかなぁーというところで苦しんでいました。そんな除去は愛美(長女 現在は3歳)一人ならいざ知らず おっぱいをあげている私に徹底できるわけもなく、何が本当に悪いのか良くわからないまま、毎日、愛美の症状に一喜一憂していました。
苦しいときの神頼みで、いつか、インドにおわす大いなる神サイババに引かれていました。そうして出かけることになったインド。でも食べるものはあるか、ただでさえ弱い子を連れて予防接種もできずにいるのに、他の病気になったらどうするか不安で一杯でした。そして荷物はアレルギー用のポンセンせんべい、パックの低アレルギー米ご飯、アレルギー用ふりかけ、ルイボスティー等で一杯でした。
機内食は、事前に、小麦除去ベジタリアンの指定を聞き入れてもらえて一安心。インドに着いてからは、早速電気コンロ、鍋兼食器のステンレスの器を買って 自炊体制を整えました。ところが,アトピーの方は、インドに着くと、すっと良くなり、食べ物もお米中心で、野菜のスパイス煮みたいなものは、どこでもあり、私は すっかり何でも美味しく食べれて幸せ気分。愛美は、おやつにいつでもポンセンを持ち歩いて、ご飯と野菜でおじやを作ったり、食堂で出される野菜の煮物のスパイス味や塩味のものを食べていました。仁(長男 現在は8歳)の背中やお尻のカサカサも1週間でツルツル。インドの甘いお菓子も食べているし、油ものも食べているのに、なぜかアレルギー反応はまったく起こしていない様。仁の場合米に強いアレルギーがあり、日本の米と種類 質がちがうのが良かったかも知れません。

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愛美はとにかく、顔の赤みが引いたので、ちょっと油断していると、脇手首がジクジクしてきました。よく考えれば、インドの豆のスープを飲ませたりしていたのが 原因だったようですが、治らないし,かくしあまりにもかわいそうなので病院に行くことにしました。薬は、自然のものを中心に、消毒用のきはだ竹酢液、ローションなどしか持ち合わせてなくって、持参のものでは効かないようでした。
サイババの無料の病院に行って出されたものは、やっぱりステロイド剤、使いたくなくてやめていたけれどそんなこと言っている場合ではないと思い、使ってみたらすっと良くなって、やっぱりステロイドはすごいと感心。アーユルベーダの薬屋さんにも行って、薬草入りの軟膏ももらって付けてみました。
こうして 日本に帰ってくるともう次の日から、また 赤い顔。仁もしばらくしてカサカサ。どうやらこの子達は前生がインドであったのか、よほどインドの食事、風土があっているようでした。インドに行けばアトピーは良くなると知ってしまうと、元々旅行好きの私としては、また行こうということに、2年目、3年目は、少しずつ、荷物も身軽になってきました。自炊セットだけは、しっかり押さえて、後はお米さえあれば、むこうではなんとでもなるということで、要領よくなってきました。夜の食事の時に、ご飯をお弁当箱に入れておいて、朝はお粥にして食べると、朝パンしかなくても困らずに食べられます。おやつは、インドのお米のポン菓子とポップコーンをいつも買っておくと大丈夫ということがわかりました。3度目のインドネパールの家族旅行では、アーユルベーダの病院での薬が、仁にぴったり合いカサカサして粉吹いた肌に、もらった軟膏を付けてあげると 食事のせいもあったのでしょうが2,3日ですべすべ。インドやネパールでは、アトピーとはあまりいわないみたいですが 皮膚の病気があるようで、とりあえず皮膚を見せてかゆがるのだというと、わかったわかったとすぐ薬を出してくれました。アガスティアの葉(インドの個人の予言書)の予言で子供に皮膚病があり、まだ数年は、そのことで出費があるが大きな問題ではないとかかれており、どうして知っているのといいたくなりましたが、どうやらアトピーもインドに行くことも、すべて必然の上にあったようです。

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アトピーのお陰で、インドに行くことになって、アトピーに対する視点もぐーっと広くなりました。インドに行く前はマクロビオティックの食にこだわりすぎていたし、現在の状況を認めるゆとりもなかったように思います。でも帰ってきてからはサイババの教えに救われ、祈りの力で心を落ち着けることを知り アーユルベーダの教えも加わり、除去する物も体験としてわかり、ずいぶん楽になりました。
いまだに、やっぱりかゆがるし じんましんもおこすし、またカサカサもしているけれど、これくらいいいかなぁーって所で落ち着いてみていられるのも すべて旅のお陰かなぁって思っています。    

インド子連れ旅日記  その10    臼井朋子

今回のテーマはことばです。

インドはヒンディ語の他、地方によってタミル語、ベンガル語など多数の言語があり、イギリスの植民地だったこともあり、英語もよく使われています。

とうぜん旅の会話は英語。さほど教養のない(失礼)タクシーの運ちゃんでも、店番しているガキでもどんどん英語でしゃべっているのです。これが、独特のなまりがあり、アメリカ人でも何をいっているのかわからないというのですが、もともと英語の弱い私にはちょうどいい。むこうも文法が間違っていようが、単語を並べてくるし、私の英語も同程度かそれ以下なので、恥をすてて、話すと何とか伝わるからおもしろい。

むしろ欧米人だと一つ質問すると、早口で長々と答えがかえってくるのでまったく何を言っているのか分からなくなってしまうのです。インドでも、主婦は外にでる機会が少ないのか、英語を話せる人は少ないようです。子供は学校で小さいときから習うみたいです。7歳くらいの男の子のノートを見せてもらったことがあります。中学校でやったような例文がのってて、一生懸命読んでくれました。私はすっかり忘れて、よく分からなかったりしました。学校に行っていない子でも商売してる子は外人相手にどんどん話してくるし、彼らの生きる力としてのことばには敬服します。

ネパールは、日本人ツーリストが多く、英語の次に覚えることばは日本語で 日本語が話せる人がたくさんいます。日本語学校に招待されて行ったのですが、みんなとっても熱心です。先生もあやしい日本語を使っていたりもするけど、敬語もきちんと使えるし、漢字もきちんと書ける人もいます。

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日本語の意味を質問されて、やさしい日本語におきかえて答えようとするのですが、これがなかなか難しく、日頃いいかげんに日本語を使っていることを痛感しました。

習っていると言うほどでなくてもお店では、「私たちはともだちネ。」「これ高くない。安いよ。」とすぐ日本語で声をかけられます。日本人の弱いところをつかれているなあと思いつつ、つい日本語で話されるとその宿に泊まったり、買い物したり、何かあげちゃったりする私たちでした。

外国の子供はめずらしいのか、「なまえは?」「どこから来た?」「いくつ?」とよく聞かれます。

仁くんは、6歳から英語を習っていて、いつも同じパターンなのでどうにか答えていますが、恥ずかしがっていけません。

英語で話す必要性をインドでうんと感じて、日本でも一生懸命レッスンしてほしいと思うのですが、日本のクラスには嫌々ながら行っているみたいです。でもやめるとは言わないので、すこしは覚えたいと思っているのでしょうか?

愛美のほうは、今年から3歳クラスに入りました。

英語のうたと踊り中心なので、楽しんで家でも自分でCDをかけて歌っています。

早期教育には いっぱい問題ありなのですが、英語だけは私が話せないので、小さいうちからやらせたいと思ってしまいます。

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私もはじめてインドにいったときは、本当に何も話せなくて、いつも通っていたヨガの先生に「トモコ、どうして話さないない?」と言われて、その答えも言えず、ただうつむいていました。その先生はトモコに英語を教えると単語・例文のプリントをくれて、毎日読んでこいと言われて、アシュラムのベッドで、中学生に戻ったように動詞の活用を繰り返していたこともあります。

日本に帰って、よし、勉強するぞ!と英会話ラジオ講座のテキストを買ったりしたけど、続かず、アメリカ人の先生について習ったけどやっぱり子連れでは大変。でも最初の頃よりかは少し話す勇気はもてるようになりました。

健二さんの方は、ちょっとそれは日本語そのままの発音じゃない・・とこちらが恥ずかしくなるような発音でも大声でどんどん単語を並べて話します。

面倒な手続きのときには私の方が英語を話せるから、私に行け!と言うのですが、インド人の方が気をつかって、「彼女は子供がいるからお前が来い。ノープロブレム。」と言ってくれ、何とか手続きをすまして帰ってくるから、もしかしたら、結構、わかっているのかも知れません。

私は 少しは話せても聞くことの方が難しく、会話が続かず、悲しい思いをしています。

いつか子供が大きくなったら、もう一度、英会話を習いたいと思いつつ、いまは子供に期待するばかりの親ばかです。

 

インド子連れ旅日記  その11    臼井朋子

 今回のテーマはネパールについてです。

インドとネパール お隣で一緒にされることも多いけれど国柄はまるで違います。ネパール人は穏やかでインド人のように自己主張が強くなく、日本人に近い感じがします。チベット人は顔つきも日本人に似ていてなぜかほっとします。チベット語で 1234をチィ ニー スム シーと数え 遠い昔一緒だった様な共通点を感じます。

ネパールには世界各国のレストランがあり、(もちろん日本料理店も)インドを回ってきた旅人には楽園です。インドではどこに行ってもカレーばかり インド文化が最高だというお国柄、商売気も強くだまされるのではといつも気を入れて交渉、疲れ切った旅人は ネパールで気を休めるのです。日本語も話せる人の多いネパール、美しいヒマラヤの山々を眺めながらの日々、 なぜか懐かしい感じのする人々の暮らし それに引かれて私達も4度もネパールに足を運んでしまいました。3度目に行ったのは仁が3歳の時、以前歩いたトレッキングコースを少し歩いてみたいとダンプスという所まで出かけました。ネパールでトレッキングといってもだいたいは高い山の麓の村々を歩いて回るといった感じで泊まるところも多くあり 道も村人の生活道路で整備されていて そんなに大変ではありません。初めてトレッキングに行った10年前には2週間ほど歩いて山の中の温泉に浸かり最高の気分を味わいました。現地の人と服のまま河原に作られた大きな浴槽につかり山を眺めて幸せな時を過ごしました。もっとも、その2日前には峠ごえで雪は降り寒く道もずるずるで 泣きながら歩いたということもありました。

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さて子供を連れてのトレッキング 3歳になったばかりの仁は歩かずお父さんが肩車で担ぎ上げ 眺めの美しい村で泊まることにしました。宿といっても普通の民家の一画をゲストに開放しているといった感じで 部屋にはもちろん電気もなく かたい木のベッドが2個 頼めばそまつなブランケットも貸してくれます。窓は隙間だらけ 夜はとにかく冷えて ありったけの服に寝袋で 子供を抱えて眠りました。そして夜中下痢をしていた仁がトイレと起きだしてしまいました。トイレは宿の建物の外のずっとむこうにあり真っ暗で何も見えず 今日だけ部屋でしてくれとビニール袋を持ちだしたもののトイレに行くと言って聞かず思い切って懐中電灯片手に外にでたものの家の扉はがっちりと閉められており、やっとの思いで外にでた時は時すでに遅くびちょびちょの下痢便がたっぷりと服からこぼれているのでした。朝早く起きて、皆がヒマラヤに輝く美しい朝日を見ている中 一人せっせと洗濯をしていた私でした。こんな大変な思いをしても やっぱり 山の村は大好きです。山から採ってきた岩塩を運ぶロバの群 ふもとの町から買ってきた食料を竹のかごにかついで歩く人々に混じって歩き 夕方になると 火のある台所におじゃまして 食事の作り方を見せてもらったりしました。寒いのに鼻垂らして 素足に破れたうすい服を着て走り回っている子供達 豆に入った石を取る女達 水がめをかついで谷を降りる少女 ゆったりとした時の流れ、本当の幸せとは、豊かさとは何か考えさせられます。今年のネパール旅行のトレッキングは仁とお父さんとおじいちゃんが歩いてきましたが 私は飛行機から見た壮大なヒマラヤの眺めに大満足でした。偉大な自然を目の前にするとき 人は謙虚になれるのだと思います。ヒマラヤの山々に神が宿ると信じているネパールの人々がほんの少し解るような気がしました。                

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仁の書いたアンナプルナ

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