インド子連れ旅日記 その6 臼井朋子 インドでは、ごくあたりまえに神様が身近にいたる所におられます。シバ、クリシュナ、ラーマ、ブッタ 毎朝どこかしらお祈りの音楽がスピーカーでにぎやかしく流され、車にはそれぞれ神様のステッカーがはられています。小さな祭壇を備えたタクシーもありました。 小さな子供が「これ神様ね」と神様の絵を書いた絵葉書を売りに寄ってくるし、レストランにも神様の絵が張ってあります。ゴアはポルトガルに占領され、キリスト教徒の多い所でしたが、やっぱり日曜日には
教会にたくさんの人が集まり、私達の泊まっていたゲストハウスでも家族と従業員が毎日集まってお祈りをしていました。 まず指紋を取りそれから自分にあった葉の束を探してきて、一枚ずつ「あなたの生まれた年は1950年ですか」「お父さんはあ行で始まりますか」等の質問をしながら自分の葉を探していきます。 3束目のある時どれもイエスの質問が続き、両親の名、自分の名前が出てきた時には驚きでした。 それはあなたは34になろうとしていますで始まり、両親、兄弟、子供の数、自分の生年月日、現在の状況、未来に起こるできごと、人生の流れ、そして死ぬ時までが書かれてありました。 どう考えても、読み手に何も情報は与えていないし、これは神業としか考えられない、つまり、私がここに生まれ、今生きているのもすべて神の御業だったことを確認させられたのだと思いました。そう考えていくと、あの時 ああしていれば良かったと思うことも、すべて、今、私が生きていく上で必要なプロセスとしての選択であったのであり、これからも、こうあらねばと自分がすべて決定しているのだという気にならずとも、神の計らいで全てがうまくいくのだと思えるのでした。
「愛は神であり、神は愛である。愛のあるところ、常に神は存在する。人々をもっともっと愛しなさい。その愛を奉仕に変え、奉仕をさらに神を崇める気持ちまで高めなさい。それこそ最高の霊性修行である。」 「毎日を、愛を持って始め、愛を持って送り、愛を持って終わりなさい。それが神に通じる道なのです。」 BABA インド子連れ旅日記
その7 臼井朋子 愛美の下痢は、初日、夜も寝られずにトイレ通いで熱もあり、まずアーユルベーダの病院に連れていっていました。インドでは 古代からの伝承医学アーユルベーダがまだ息づいており マッサージや薬を売っているのをあちこちで見かけましたし リシケシのアシュラムでは西洋の病院とアーユルベーダの病院が同格で用意されていました。アーユルベーダの病院ではまず脈をみて、おなかを触って問診がありました。私の語学力では症状を伝えるのがやっとで、アーユルベーダの詳しいことはなかなか聞けなくて残念でした。さてアシュラムの病院では、問診のあとすぐ薬を出してくれました。日本では滅多なことでも病院に行かない私達ですがサイババのアシュラムでは神様がついているから安心みたいな心強さがあり、解熱剤もはじめだけ飲ませてみました。そうして、2,3日すごい発疹と高熱とかゆみで苦しんだ仁君もやっとおさまり、出発を延ばして完治し、アシュラムを去ろうという日の朝、愛美の体に水疱瘡が....これはやばい!!飛行機は変更不可のチケットだけれども何とか延ばして治してから帰った方がいいのでは、むりして他の病気を併発したら、と言う不安がよぎりました。とりあえずダルシャン(礼拝)へ出かけ日本の人に相談すると病院についていってくれるということになりました。今度は、通訳付きで、心強く病院に行くと、病院でもサイババの祭壇の前でバジャン(お祈りの歌)が行われていました。 小児科で待っていると幼い子を抱えたインド人が続々とやってきました。心配そうな表情はどこの国でも一緒 やっと先生が来てみてもらいました。今からここを去るので心配だということも伝えましたが「水疱瘡だから薬だしとくね」ということで処方箋を書いてもらい薬局へ、薬局では、なんと下痢止めと、解熱剤と水疱瘡の薬を全部まとめて一つのビンに入れてしまったのです。私は外で待っていたので知らなかったのですが、付き添いの彼女は、それはひどいとまた先生に聞きにいき薬局にも抗議してくれたのですが水疱瘡は熱もでるものだと解熱剤と水疱瘡の薬はまた一つにされてしまいました。病院でも旅行の事は何も言われなかったしお父さんも移動して何とか帰ろうというので、午後の飛行機に乗りました。心配したものの 愛美の方はいたって元気でふだんと変わらずボンベイに到着。インド最後の夜だからと奮発して高級ホテルにチェックイン。海岸で遊んで、その夜 私の体が熱っぽくだるく水疱瘡が...実は 私は幼い頃水疱瘡をしていない気がしておそれてはいたのですがまさか本当にかかってしまうとは.....何とかしたいと全日空に電話を入れてみるのですが営業時間外で通じず、空港オフィスにも通じずあきらめて翌日、夜の便に乗るために空港に行きました。そして、チェックインカウンターで水疱瘡でしんどいので配慮してほしいと話をすると、ちょっとお待ちくださいが永遠に待たされることになってしまったのです。私はただシートを離してとってくれるのではくらいのあまい気持ちでいたのですが、日本人のマネージャーがでてきて「日本の検疫とも連絡を取ったところ他人に移る病気なので渡航にはふさわしくないということで、今回は帰国を見送っていただいて、直ったという証明を病院でもらってから飛行機に乗ってください」と言われてしまいました。そして、ホテルと病院を紹介してもらい、出発カウンターから、とぼとぼとまたボンベイの街へもどっていくのでした。後で聞いた話ですが、その便は整備不良で遅くまで待たされたあげく ついに飛ばずホテルに返され 翌日他の便に振り替えられ、何とか出国したということで、私達は不幸中の幸いだったということでした。さてホテルは、さすが全日空で紹介されただけあって今まで泊まったこともない日本以上のきれいなホテルで 料金もそれなりですがえらく満足してしまいました。翌日紹介されたプライベート病院に行ってみるとまたまた日本以上にきれいな大きな病院でびっくり、しかしカウンターでいっていることがよくわからず途方にくれました。後でもう一度聞くと小児科はないらしく近くの病院を紹介してくれました。 紹介された市民病院はインド人でごった返していました。 受付で聞いても、あっち行け、こっちいけで、ようやくたどり着いた小児科の先生にみてもらうと、なんと、3週間はだめで、証明は、その後でしか書けないというではありませんか。その病院でも かゆみ止めと飲み薬ビタミン剤をもらってホテルに戻り、ああこれは、きっと神様からの贈り物、インドにいて充分休養しなさいということなのだろうと思い直し、もうしばらくインドを楽しむ決心をしました。幸い愛美の水疱瘡は軽く、私の方はホテルでごろごろしていると体の方は楽になり、さあどこかで遊ぼうかということになり、とりあえず郊外ということで ボンベイ北のビーチに出かけました。そこは5星の高級ホテルしかなかったのですが 市内より安くプールもあり景色も良く、部屋も最新式、料理もおいしく最高。子供の公園もあり、仁は大喜び。そのころには水疱瘡のお陰でしばらくはインドで遊べるとすっかり心は旅人にもどっていました。 でも もっと田舎で安い所に行こうとゴアまでの飛行機を手配して、ぶつぶつの顔を隠して飛行機でゴアへ向かいました。ゴアは椰子の木が並び 美しいビーチの南国楽園リゾートです。ここでは身分相応の安くて、いいゲストハウスも見つかり楽園気分。アラビア海に沈む夕日を眺めてのんびりできました。 水疱瘡もすっかり良くなって 海に入って遊べるようになりました。しかし、問題は病院の証明書 しばらくゴアで遊んでからゴアの病院に行きました。何も知らずにタクシーで連れていかれたところは州営の大きな病院で、やっぱりインド人で一杯、何とか小児科にたどり着くとちょっと待てといわれるがなかなかみてもらえず 他の子の様子を観察、ほとんど問診で処方箋を書いているみたいでした。やっと先生が来て、説明するとすぐ証明書を書いてくれて一安心。支払ったお金はカルテを作るときに払った10ルピー(35円)だけでした。実は私はインドでもネパールでもタイでも病院でお世話になったことがあり、どこでも診察と、薬局は別で、カルテ代ぐらいでお医者さんに払うお金はなかったように記憶しています。インドのシバナンダアシュラム(ヨーガ道場)の病院ではすべて無料で、虫さされとピアスの穴をあけて化膿してしまったのをみてもらい、ネパールでは熱から中耳炎を起こし日本の寄付でできたという病院へ行き、続いてタイでもみてもらいました。全日空の日本人マネージャーは州営や国営の所は、ものすごく安いので、いろんな病気の人が来るので、かえって悪い病気をもらいそうなのでといって、いい病院を紹介してくれましたが、実際無料の病院では足のない人、皮膚がずるずるの人、真っ赤な目をした子供を見て、かなりショックでした。日本の病院は衛生管理がしっかりされていて、その点は最高ですが、どうもインドの病院と比べると、一般的に日本の医療は金儲け的な感じを受けてしまいます。 インド子連れ旅日記 その8
臼井朋子
インド子連れ旅日記 その9
臼井朋子 愛美はとにかく、顔の赤みが引いたので、ちょっと油断していると、脇手首がジクジクしてきました。よく考えれば、インドの豆のスープを飲ませたりしていたのが
原因だったようですが、治らないし,かくしあまりにもかわいそうなので病院に行くことにしました。薬は、自然のものを中心に、消毒用のきはだ竹酢液、ローションなどしか持ち合わせてなくって、持参のものでは効かないようでした。
今回のテーマはことばです。 インドはヒンディ語の他、地方によってタミル語、ベンガル語など多数の言語があり、イギリスの植民地だったこともあり、英語もよく使われています。 とうぜん旅の会話は英語。さほど教養のない(失礼)タクシーの運ちゃんでも、店番しているガキでもどんどん英語でしゃべっているのです。これが、独特のなまりがあり、アメリカ人でも何をいっているのかわからないというのですが、もともと英語の弱い私にはちょうどいい。むこうも文法が間違っていようが、単語を並べてくるし、私の英語も同程度かそれ以下なので、恥をすてて、話すと何とか伝わるからおもしろい。 むしろ欧米人だと一つ質問すると、早口で長々と答えがかえってくるのでまったく何を言っているのか分からなくなってしまうのです。インドでも、主婦は外にでる機会が少ないのか、英語を話せる人は少ないようです。子供は学校で小さいときから習うみたいです。7歳くらいの男の子のノートを見せてもらったことがあります。中学校でやったような例文がのってて、一生懸命読んでくれました。私はすっかり忘れて、よく分からなかったりしました。学校に行っていない子でも商売してる子は外人相手にどんどん話してくるし、彼らの生きる力としてのことばには敬服します。 ネパールは、日本人ツーリストが多く、英語の次に覚えることばは日本語で 日本語が話せる人がたくさんいます。日本語学校に招待されて行ったのですが、みんなとっても熱心です。先生もあやしい日本語を使っていたりもするけど、敬語もきちんと使えるし、漢字もきちんと書ける人もいます。 日本語の意味を質問されて、やさしい日本語におきかえて答えようとするのですが、これがなかなか難しく、日頃いいかげんに日本語を使っていることを痛感しました。 習っていると言うほどでなくてもお店では、「私たちはともだちネ。」「これ高くない。安いよ。」とすぐ日本語で声をかけられます。日本人の弱いところをつかれているなあと思いつつ、つい日本語で話されるとその宿に泊まったり、買い物したり、何かあげちゃったりする私たちでした。 外国の子供はめずらしいのか、「なまえは?」「どこから来た?」「いくつ?」とよく聞かれます。 仁くんは、6歳から英語を習っていて、いつも同じパターンなのでどうにか答えていますが、恥ずかしがっていけません。 英語で話す必要性をインドでうんと感じて、日本でも一生懸命レッスンしてほしいと思うのですが、日本のクラスには嫌々ながら行っているみたいです。でもやめるとは言わないので、すこしは覚えたいと思っているのでしょうか? 愛美のほうは、今年から3歳クラスに入りました。 英語のうたと踊り中心なので、楽しんで家でも自分でCDをかけて歌っています。 早期教育には いっぱい問題ありなのですが、英語だけは私が話せないので、小さいうちからやらせたいと思ってしまいます。 私もはじめてインドにいったときは、本当に何も話せなくて、いつも通っていたヨガの先生に「トモコ、どうして話さないない?」と言われて、その答えも言えず、ただうつむいていました。その先生はトモコに英語を教えると単語・例文のプリントをくれて、毎日読んでこいと言われて、アシュラムのベッドで、中学生に戻ったように動詞の活用を繰り返していたこともあります。 日本に帰って、よし、勉強するぞ!と英会話ラジオ講座のテキストを買ったりしたけど、続かず、アメリカ人の先生について習ったけどやっぱり子連れでは大変。でも最初の頃よりかは少し話す勇気はもてるようになりました。 健二さんの方は、ちょっとそれは日本語そのままの発音じゃない・・とこちらが恥ずかしくなるような発音でも大声でどんどん単語を並べて話します。 面倒な手続きのときには私の方が英語を話せるから、私に行け!と言うのですが、インド人の方が気をつかって、「彼女は子供がいるからお前が来い。ノープロブレム。」と言ってくれ、何とか手続きをすまして帰ってくるから、もしかしたら、結構、わかっているのかも知れません。 私は 少しは話せても聞くことの方が難しく、会話が続かず、悲しい思いをしています。 いつか子供が大きくなったら、もう一度、英会話を習いたいと思いつつ、いまは子供に期待するばかりの親ばかです。インド子連れ旅日記 その11 臼井朋子 今回のテーマはネパールについてです。 インドとネパール お隣で一緒にされることも多いけれど国柄はまるで違います。ネパール人は穏やかでインド人のように自己主張が強くなく、日本人に近い感じがします。チベット人は顔つきも日本人に似ていてなぜかほっとします。チベット語で 1234をチィ ニー スム シーと数え 遠い昔一緒だった様な共通点を感じます。 ネパールには世界各国のレストランがあり、(もちろん日本料理店も)インドを回ってきた旅人には楽園です。インドではどこに行ってもカレーばかり インド文化が最高だというお国柄、商売気も強くだまされるのではといつも気を入れて交渉、疲れ切った旅人は ネパールで気を休めるのです。日本語も話せる人の多いネパール、美しいヒマラヤの山々を眺めながらの日々、 なぜか懐かしい感じのする人々の暮らし それに引かれて私達も4度もネパールに足を運んでしまいました。3度目に行ったのは仁が3歳の時、以前歩いたトレッキングコースを少し歩いてみたいとダンプスという所まで出かけました。ネパールでトレッキングといってもだいたいは高い山の麓の村々を歩いて回るといった感じで泊まるところも多くあり 道も村人の生活道路で整備されていて そんなに大変ではありません。初めてトレッキングに行った10年前には2週間ほど歩いて山の中の温泉に浸かり最高の気分を味わいました。現地の人と服のまま河原に作られた大きな浴槽につかり山を眺めて幸せな時を過ごしました。もっとも、その2日前には峠ごえで雪は降り寒く道もずるずるで 泣きながら歩いたということもありました。 さて子供を連れてのトレッキング 3歳になったばかりの仁は歩かずお父さんが肩車で担ぎ上げ 眺めの美しい村で泊まることにしました。宿といっても普通の民家の一画をゲストに開放しているといった感じで 部屋にはもちろん電気もなく かたい木のベッドが2個 頼めばそまつなブランケットも貸してくれます。窓は隙間だらけ 夜はとにかく冷えて ありったけの服に寝袋で 子供を抱えて眠りました。そして夜中下痢をしていた仁がトイレと起きだしてしまいました。トイレは宿の建物の外のずっとむこうにあり真っ暗で何も見えず 今日だけ部屋でしてくれとビニール袋を持ちだしたもののトイレに行くと言って聞かず思い切って懐中電灯片手に外にでたものの家の扉はがっちりと閉められており、やっとの思いで外にでた時は時すでに遅くびちょびちょの下痢便がたっぷりと服からこぼれているのでした。朝早く起きて、皆がヒマラヤに輝く美しい朝日を見ている中 一人せっせと洗濯をしていた私でした。こんな大変な思いをしても やっぱり 山の村は大好きです。山から採ってきた岩塩を運ぶロバの群 ふもとの町から買ってきた食料を竹のかごにかついで歩く人々に混じって歩き 夕方になると 火のある台所におじゃまして 食事の作り方を見せてもらったりしました。寒いのに鼻垂らして 素足に破れたうすい服を着て走り回っている子供達 豆に入った石を取る女達 水がめをかついで谷を降りる少女 ゆったりとした時の流れ、本当の幸せとは、豊かさとは何か考えさせられます。今年のネパール旅行のトレッキングは仁とお父さんとおじいちゃんが歩いてきましたが 私は飛行機から見た壮大なヒマラヤの眺めに大満足でした。偉大な自然を目の前にするとき 人は謙虚になれるのだと思います。ヒマラヤの山々に神が宿ると信じているネパールの人々がほんの少し解るような気がしました。 仁の書いたアンナプルナ TOPページに戻る |