●舎爐夢ヒュッテの日記とGUESTのページ |
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2月23日
ハードデスクがクラッシュしてしまいハードディスクを買いに松本まで出かけるが8.4ギガ以下のものは見つからず半日つぶれてしまう。予備にあった30ギガを取りつけることにする。ほとんど仁君が交換を仕切って取りつけました。まずバイオスをバージョンアップ メーカーのサイトからダウンロード簡単にすんでしまう。その後パテーションをきりcドライブをフォーマット WIN2000をセットアップするが途中からハングアップ 再度挑戦するがやはり駄目 翌日に持ち越しました。でもこの作業のほとんどを仁君がやりました。とにかく感心です。翌日は98でトライしてみたり 2000にしたりで1日格闘大変な1日でした、結局98を入れることができました。2000も大丈夫でしたが98を最終的には入れておくことにしました。 2月3日 芥川賞作家の池澤夏樹が読売新聞の取材で来て戴きました。夜遅くまで今の経済システムや戦争のこと地域通貨のことなどを話しました。新しく出版されたイラクの小さな端を渡ってをいただきました。 2月1日 小布施の地域通貨勉強会に招かれて出かけてきました。小布施の持っているパワーに刺激されて帰ってきました。町作りは人作りなんだと実感しました。小布施がこれまでになったのは長い年月がかかったと思いますがそれを支えた仲間がいたことリーダーがいたことも大きな事でしょう。 ●江戸川大学の鈴木さんが、まちづくりに取り組む「ひと」を訪ね歩きます。 まちが面白い、ひとが面白い ー感動を求めて歩く旅ー 小布施堂の市村次夫さん 長野県小布施町 江戸川大学 鈴木輝隆 小布施町は江戸時代からの文化が切れずに続いている小さな町である。市村次夫さん(桝一市村酒造場17代・小布施堂社長)は、「江戸時代、高井鴻山(桝一市村酒造場12代・市村三九郎)は葛飾北斎を招き、岩松院本堂や祭屋台の天井画を制作させた。昭和7年、カナダ人宣教師ウォラー博士がサナトリウムを建設しようとしたとき、結核という『亡国病』を恐れて30以上の町で反対運動が起きたが、小布施は受け入れた。小布施は日本画家・中島千波が生まれ育った地であり、美術館もでき、地域の文化として定着した。昔から小布施は人と人の関係を大事にする町だ」と語る。 ■ 環境を持続する 「年間120万人が訪れる小布施のまちづくりの源流は、昭和40年の栗ケ丘小学校のキャンパス計画から」と語るのは小布施の全ての公共建築を任せられた建築家・宮本忠長さん。「当時の市村郁夫町長(桝一市村酒造場16代)に『小布施固有の文化、地域の精神を大切にすることを第一義に考え、法スレスレのことをしてきた。町の記憶を辿り歴史と日常生活を継続し、町の個性を創造するために一人の建築家に任せたい』と求められ、小学校を建て直した際、何一つ捨てないで古材を活かして寺の本堂や音楽堂や文化体育館に転用した」 20世紀は、戦争と経済によって多くの町が破壊され、その再生において伝統と創造の間をさまよってきた。欧州の石の町と違い、日本の木造建築は自然に寄り添い時間とともに朽ちていく。多くの町は、歴史と文化と縁を切り、個性より経済性や耐久性を追った。 市村次夫さんは、「小布施では、まちづくりを歴史・日常生活を維持する『模様替え』ととらえ、再開発の思想はない。新築ではなく再構築していく思想。町並み修景事業では仮住まいや仮店舗が気持ちを惨めにさせるため、建物が完成してから移る生活重視を貫いた」と、経済と効率前提のまちづくりを批判する。栗菓子の工場や自宅は、全体景観を壊さないように、地下を作り2階建ての高さに押さえた。夜景の演出は闇がくっきりと表情に陰影があり印象深い。 ■味わい空間 市村さんは、「『産地』から『王国』に変わることだ。産地は素材があるが発想が貧しい、素材を活かす知恵がない。産地が豊かな想像力をもって素材を活かす王国になる時代。食事空間ではない味わい空間をめざす」。「味わい空間」という言葉には、上等な生活を楽しむという心意気が感じられる。小布施では和洋問わずに味わい空間が町全体に広がっている。 市村さんは「一生書生」と自らをいい、小さな町が時代を超えて生き抜くためには、個性の追究、人間性や感性、知性を磨くことから始まると考えている。小布施堂のレストラン「蔵部」は、各地を見て歩き、土で作った竈でご飯を炊き炭火で魚を焼く。什器も本物を求め歩き、妥協がない。 人と人の関係を深める味わい空間が地域の生活や経済を豊かなものにする。生活文化とくに食文化への高い意識が上質な生活を実現させ、当代一流の人が小布施を訪れ書生市村さんに影響を与える。 ■小布施ッション 新しい文化を積極的に移入し、会うたびに人を驚かせ新鮮な感動を与えることが市村さんのもてなし。小布施が古色蒼然にならない秘密はここにある。 市村家の家業は国内貿易、製油業、塩問屋。桝一市村酒造場の創業は宝暦5年(1775年)、明治30年代には栗菓子を缶入りにして通年商品とし、大正12年に株式会社「小布施堂」を設立。昭和55年、父の死去により、小布施を離れていた市村次夫さんは従兄弟の市村良三さんを片腕として家業に戻った。小布施堂の事業はユニークで全国の注目を集め、一方、第三セクターのまちづくり会社「ア・ラ・小布施」(市村良三社長)を平成5年12月に設立し、農林産物の振興・情報発信基地、蔵造りの宿泊施設などを経営する。 さらに、長野冬季五輪の企業ボランティアとして貢献したいと米国からきたセーラ・マリ・カミングスさん。アン英国王女主催のパーティや大規模かつレベルの高い国際北斎会議を開催して活躍。「利酒師」の資格を取得し、桝一市村酒造場の再構築を担い「蔵部」をプロデュースした。「とりあえず」や「仕方ない」という言葉を聞くと、「昔から日本人は曖昧な仕事はしない。今の日本人は逃げ道を作って仕事をする。仕方ある仕事を」と話す。 「小布施ッション」は毎月ぞろ目の日に開催する。「オブセッションとは憑くこと、夢中、アイディアの意、お洒落な席で気軽に小布施の料理とお酒を楽しみながら、面白い人が出会い、情報交換ができる会を目指す」とセーラさん。地域文化の創造を異邦人と行う市村さん。旦那文化は好奇心から生まれるのか。 |