佃 堅輔の SELECTED
ARTS 1994.NOV.VOL3
バラタの調べ 180号 第16回JAG展 1993
合掌する眼に映る印度
美術評論家 文・佃 堅輔
生命への熱い想いが、絵筆をとらせる、上野玄春は、日本画家であるが、日蓮宗僧侶の資格を持っている。画僧である。1946年、栃木県生まれの彼は、1970年、東京教育大学芸術学科を卒業し、美術の教職に就く。しかし、1977年、教職を辞し、印度に渡り、「仏」とヨガに出会った。その後、JAALA美術家会議で、パレスチナ難民キャンプを訪れたり、1979年には、印度プーナで、聖師B・Sラジニーシに出会った。こうしたなかで、上野玄春の画家としての活動が始まった。この略歴からわかるように、彼は画家から仏門に入り、画僧となった。なぜ彼が、自分の職業を辞めて、印度に赴いたのか。その理由を推測するならぱ、おそらく彼の内面が宗教的なものに向かう必然性を持っていたからだろう(仏は常にいませども〉は、こうした必然性にふれる作品である。自然の緑美しい植物の葉に取りまかれ、白い花々のうえに座す仏の姿。うす紅いの蓮の花はなく、まさしく植物の葉の形が仏を取りまく。いや、これらの葉は、仏の姿に侵入し、その姿をさながら分割するようにみえるが、黄金色の顔や手足も、朱赤の衣も、葉の形となる同化作用に従っている。植物の生命が、仏の生命と共にある。世界は、ひとつの生命の流れであり、ひとつひとつの世界のなかに、生命の世界がそれみずから宿る。
仏は常にいませども 100号 第11回JAG展
であるなら、“仏は常にいませどもの“ども”という接続助詞にこめられた画家の想いは、何かおのれに問い掛ける疑問符のようにひびいてこないであろうか。おのが生命への真の問い掛けがなされているのではあるまいか。
画家は最初、油彩を学んだが、曼陀羅や、自然や植物の生命感を表現するうちに、次第に日本画の表現に移っていったという。《仏は常にいませども)は、モダンな感覚を示している。ややデコラティーフな様式に傾く表現は、明るい色調のまとまりある構成をかたづくる。この作品のひとつの特徴である群葉は、<ことのは>や<ゆらぎ>において、より具象化されるが、<バラタの調べ>において、濃密度を増してくる。群葉は、生き物のようにうごめく生命の繁茂であり、熱帯の空気を呼吸する。これを背景として踊るインド女性は、リズミカルで、しなやかな姿をみせ、バラタの調べに生命そのものが、踊りと化したように思われる。画家は、「合掌する”眼”」という興味あるエッセイを書いている。それによれぱ、彼はゴッホやルネッサンスの名作を前にしたとき、厳粛な気持ちにおそわれ、ふと新聞記事で知ったアイバンクのことを思い起こす。ある病人が、夢で自分の眼が取りだされる。その眼は自分の抜け殻をみて涙し、今まで与えられた命に感謝して別れを告げたという内容である。これについて、画家は、この“眼球とは残された画家の魂と等しい”とみなし、“作品とはキャンバスに移植された作家の眼そのものではあるまいか”と。
合掌する眼に、印度で「仏」とヨガに出会った景色が映る。
ゆらぎ 80号 ことのは 8号
TOPページに戻る |