鬼

            上 野 玄 春    

 昨年の暮れのことです。高速バスに乗って上京している時、私の携帯電話が鳴りました。僧侶としての私の身元引き受け人である東京・竹の塚の玄明先生からの電話でした。日蓮宗の足立区のお寺の合同の法事に一人足りないので出座してはくれないかというものでした。丁度その日時は空いていましたので、二つ返事で伺うことを伝えました。当日の法要が終わった後、参加されたお坊さん達と、ほっとして用意された食事をとっていますと、この竹の塚の玄明先生のお寺の近所にあるお寺の住職さんが、「玄春さん、お寺に何か絵を貸してくれないか?」と云うので、これも二つ返事で私は「いいですよ、では帰りにご住職のお寺に寄らせてもらって、飾る所に合う絵を考えましょう」と云いました。するとご住職は「いいや、私のお寺ではなくて、私が今年から出仕している中山の法華経寺の本堂の入口の壁に飾ってもらいたいのだけれど…」という話でした。中山の法華経寺といえば、私は行ったことがありませんでしたが、日蓮宗のみならず仏教界では荒行の総本山として名の通ったお寺です。そんなお寺に絵が飾られるのは光栄なことと思いましたので、「では今度、その中山の法華経寺へ行って、私の手持ちの絵の中でどの絵が相応しいのかを、飾られる予定の場所を見てから考えてみたい。」といいました。私のイメージのなかでは、その時自宅にある「万葉」という100号の日本画作品が頭にあったのです。

 果たして、後日、実際に中山の法華経寺へ行きますと、京成成田線の中山駅からすぐに参道が続き、立派な山門をくぐると、五重塔や祖師堂の伽藍が配置された一番奥に本堂があり、その入口の事務所の正面の壁が飾られる予定の場所でした。そしてそこは予想していた空間よりはるかに広く、予定の「万葉」という100号の作品では間に合わない感じでした。よわったな〜ここに飾って、合いそうな大きさの作品は私の作品のなかで一番大きな「バラタの調べ」という熱帯植物の中で女性がインド舞踊を踊っている襖三枚分ほどの大きさの作品しかないだろうな〜と思いました。

しかしその絵は長野県安曇野の有明の家というところに飾ってあったので、分解して運んだり、代わりの絵を飾ったりと中々手間がかかりそうでした。その本堂の奥に案内していただくと、そこは鬼子母神が祀られ、その日も、かわるがわる十数人単位の信者さん達が列をなして祭壇のまえに座り、当寺の僧侶の気合の入った祈りと所作に頭をたれて祈祷を受けているところでした。私はこの列に入れてもらい一緒に祈祷を受けて、そうか鬼子母神はインドの母性の神様なのだから女性がインド舞踊を踊っている作品は相応しいかも知れないと、この時点ではこのような素朴な動機や思いで飾る作品を心に決めたのでした。

 そしてその後2週間もたたないうちに、有明の家にある「バラタの調べ」の絵を取り外し、作品を三つに分解し、それぞれの作品の表面を保護するために透明のビニールで包み、その作品と額を宅急便で法華経寺に送っておき、その二・三日後に私が直接法華経寺に行き、すでに着いていたその作品を組み立て、お寺の電気関係のメンテナンスを常時引き受けている出入りの業者さんの手助けにより、壁に電気ドイルで額を固定し、年内に、どうにか搬入と飾り付けが終わりました。

さて、年も明け、春、妻が、北海道の室蘭のそばの伊達市と言うところで、この何年か興味を持ち研修も重ねてきたルドルフ・シュタイナーの教育思想を実践している「ひびきの村」の小学校の先生として採用され、今年4月に子供と共に赴任し、その伊達市で部屋を借り働くこととになりました。実は絵の踊り子はインド舞踊家の私の妻をモデルとした作品なのです。そして春の入学式に一度その「ひびきの村」へ行き、再び、夏も近づく頃、丁度仕事の日程が空いたので、又、フェリー乗って新潟の直江津港から室蘭へと向かうことになりました。フェリーは直江津港を深夜発って、翌日の夕方室蘭へ着くほどですから、船にはサウナや、食堂などがありますが、長旅を有意義に過ごす為に、いつもその時じっくりと読みたい本を持っていくことにしています。前回に引き続き「ヌース理論」の本と今回は身延山の本部から送られてきた本で、竹の塚の玄明先生を経由して手元に届いていた日蓮上人の「観心本尊抄」がとても気になっていて、今回読んでみようと携帯したのです。以前日蓮宗の主な「行」は唱題行だと「現代仏教」という本の取材の時に語って、どこか言い足りなかったなと感じていたので、本尊としてのお曼荼羅について、とても気になっていたので、その解説になるであろう「観心本尊抄」が現代語で解説されているという今回の小雑誌がとても気になっていたのです。

梓川村の我が家から車で松本に出て、長野市を通り直江津港を深夜発つと、夜の日本海を、フェリ−は重厚なエンジンの音を鳴らしながら一路北へ向かいます。まずはきっと新潟市と佐渡ヶ島の間を通っているのでしょう。そういえば日蓮上人は佐渡ヶ島に流されている間に新境地を開眼し、日本の仏教史上の名著この「観心本尊抄」が書かれたという事に気づき、今が最も「観心本尊抄」を読むのに相応しい時期である事と感じました。

 さて「観心本尊抄」を読み進めるうちに、なんと仏陀と鬼子母神の話が出てまいりました。私は鬼子母神については、通り一遍の事しか知りませんでした。他人の子供をさらっては食べてしまう鬼の形相をした女の神様が何らかの契機で仏教では子供を護る母性の象徴として祀られ信仰されているという位の知識でした。しかし、改めてこの鬼子母神の話を読んでみると、およそこの様なお話でした。鬼子母神はインドではカーリー神といい、村人たちはそのカーリーに、子供達をさらわれては食べられてしまうので、不安と恐れによってパニック状態でした。そこで丁度その村に滞在していた仏陀にカーリーのその行為を止めさせるように説得を頼んだのです。そこで仏陀は説得をしに、この家を訪ねたのでしたが、あいにくカーリーは不在で、実はカーリーは、50人もの子供の母親だったことも判りました。そこで仏陀は一計を思いつき、その中の一人の幼い子供を抱いて、連れ帰ってしまったのです。家に帰ったカーリーは子供が一人見当たらないので、それはそれは心配し、気も狂わんばかりに村中を探し回り、ついに仏陀の所にいる事を突き止め、世の聖人ともあろうものが命より大事と思っている私の子をさらうなんてと激しく仏陀を非難し、怒り狂ったのでした。そこで仏陀は諭すのです。あなたは50人もいる自分の子の中でたった一人が、ほんの束の間居なくなっただけで死ぬ思いで村中を探し回り、気が狂るわんばかりだと私を非難し、怒り狂っている。しかし、あなたは今まで、100人にも及ぶ、村人のかけがえのない子供達を毎回さらっては殺したり、あげくには食べてしまう。そして村人は決して再び自分らの子に会うことなどできない。さて、その親達の悲しみや苦しみは、今あなたの感じている子供に会えた歓びと比べて如何ばかりかを推し量りなさい。と語ったのでした。しばらく聞いていたカーリーはやがて怒りも納まり、いつのまにか目に涙さえ浮かべながらこう語ったのでした。わたしは子供をなくした親の気持ちはよく判ります。ですが、自分でも判らないのですが、村人の子供を見ると、どういう訳かその子供をさらって、親を苦しめたくなってしまうのです。どうしたらいいのでしょう?と訴えるのでした。そこで仏陀はカーリーを前にして瞑想に入るのです。やがて瞑想から覚め、優しくカーリーに語りかけます。

 私は今あなたの前世を感じ取ることができました。そしてあなたがどうして村の子供達をさらい、村人を苦しめるのかを知る事ができました。あなたは前世ではとても有名な踊り子だったのです。そして、ある時、お腹に赤ちゃんを宿したことを知ったのです。その頃、丁度、村でお祭りがあったのです。祭りの囃子に誘われて、神社に行くと、村の若者達が踊りが上手で有名なあなたを見つけて、是非ここで踊って欲しいと頼んだのです。始めは断っていたのですが、若者達がカーリーをおだて、プライドをくすぐり、囃し立てたので、カーリーはつい我を忘れて激しく、夢中で踊り狂ってしまったのでした。しかし、家に帰るとお腹の様子がおかしいのです。そしてついにその二三日後に赤ちゃんを流産してしまったのです。カーリーはもしあの時に、若者達が囃し立てなければ、やっとできた念願の赤ちゃんを生み、すくすくと育て、幸福に暮らすことがでたのに、今となっては、その時、踊ってしまったことをひどく後悔し、嘆きや、悲しみに包まれ、あの時に囃し立てた若者達を恨み、つい、その子供や家族団欒の姿を見るとその幸せを妬ましく、知らず知らずにその家庭を崩壊させようと、いつの間にか、その子供らをさらっては殺し、時には食いちぎってしまうようになってしまったのです。と言いました。しかし仏陀はいいます。考えても見なさい。果たして、その時囃し立てた若者が悪いのでしょうか? そもそもあなたが妊娠していることを彼らが知っていたのでしょうか? それを知っていたのはあなた自身で、今回は踊らないし、踊れないと決断できるのは、あなた以外に誰もいなかったという事を判らなくてはいけません。と説得したのです。カーリーは、その時の自分自身の心の中に入り、その時の村の若者達の前で踊る事により、自尊心を満足させ、ちやほやされたいと思う心が、自分のお腹の子供を保護しなくてはならない時であるという心を無視してしまった結果である事を認めざるを得ませんでした。

このようにカーリー自身も知ることがなかった前世の出来事や、村人の子供をさらって喰い殺す等という無意識に行う自分の情動の原因を知ってカーリーは深く反省し、今後この行為を止め、仏陀の教えに従い、そのたぐいまれなる力を、子を孕み、子供を必死で育てる世間の母親や子供を護る守護神として発揮し、人々の信仰を集めてきたのでした。

さて、私はこのような鬼子母神の因縁の話を知って、驚きと、不思議な縁を感じざるを得ませんでした。私の絵の作品の中で、この法華経寺に飾る広い壁面に合うものは、代表作であり、一番大きな「バラタの調べ」という、熱帯植物を背景にして、たまたま妻をモデルにしたインド舞踊を踊る女性の絵しかなかったこと。そして、まさにその法華経寺本殿には鬼子母神が中心に祀られ、信仰を集めている事。そして、まさにその鬼子母神はインドのカーリー神であり、その世間の母親や子供を護る守護神として祀られる原因となったのは、前世が素晴らしい舞踊家であったこと、そしてとりもなおさず、その踊りは、インド舞踊そのものでありましょう。また、私が、ヨーガの先生として就いた飯島寛実先生が日蓮宗であり、そのご縁で妻と飯島玄明先生に出会い、僧侶となり、法事に参加させていただいた結果この法華経寺に飾る絵のお話にもなったのでした。法華経寺本殿に、鬼子母神が私の絵を呼んだのか、私の絵がその飾る場所を捜し求めていたのか、それは語ることのできない不思議な力によって実現した出来事にはちがいありません。また、私の母が私の幼い時から苦しい時、迷っている時人生の指針を聞きに通っていた板橋の蓮沼の教会の院主さんが、日蓮宗のこの中山の法華経寺直系の方であり、その院主さんが亡くなり、その蓮沼教会を整理するにあたって記念に譲り受けた読経の際に用いる「鉦」が母を通じて、今、私の住む信州の恒河舎に来ている事もさらに不思議なつながりを感じぜざるを得ません。「バラタの調べ」という作品は私の人生全てを表現し、花咲かせてくれた作品そのものです。この作品がこのようにその最も相応しい中山の法華経寺という場所に導かれて、飾られ人々に見られ本堂の鬼子母神を荘厳していることはこの上もない歓びであり、人知を超えた何かの力を感じざるを得ない出来事と思われるのです。                  合掌  

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