感 謝 の 言 葉 AUM これまで、私の人生の旅において、幾多の困難な時においても、常に限りない慈愛によって見守り、真理への気づきを与え続け、希望と歓びの道へと導いて下さる大いなる宇宙の光に感謝いたします。 また、このヨーガという何千年にも及ぶ人類のこの上もない叡智と実践の道を発見し、実証し、伝えてこられた歴代の先師様たちに心よりの感謝の念をお伝え致したく思います。 また私にヨーガへの道への縁を開いてくれた本「ヨーガ根本経典」の著者であり日本の近代ヨーガの先駆者である佐保田鶴治先生、最初にインドに行き、通ったヨーガ道場シバナンダ・アシュラムの総長であるチダナンダジや、その後、講演に安曇野まで来てくださったヨーガスワルパナンダジ、そのお世話をして下さった大分の川端篤先生、その後インドから帰って、通った府中断食道場の牧内泰三先生、そこにおいで下さった沖正弘導師、そしてインド・プーナで、生は歓びである事を教えてくれたB.S.ラジニーシ師、そして何よりも私をヨーガと仏教の僧へと導き、普遍的な宗教のあり方を説き世界の平和を常に願い活動なさった飯島貫実師とダーマヨーガ道会の飯島玄明師に感謝いたします
そして、このヴィヴェーカナンダ・ヨーガ・ケンドラ研究財団のYICC(ヨーガセラピスト養成講座)を受講することによって、改めてヨーガを学び直すチャンスを下さった木村慧心先生のお徳とそれまでのご修行に、心より敬意と感謝の念を捧げます。また、木村先生の師でありヒマラヤの偉大なヨーギ、ヨーゲ・シヴァラナンダ大師と、近代ヨーガを世界に広く伝えた偉大な先師であるヴィヴェーカナンダ大師にも衷心より敬意と感謝の念をお捧げいたします。 また、これまで私の人生で出会ったすべての方々に、この命の旅の学びを与えて下さった師として心より感謝いたします。とりわけ私のヨーガにおける人生の伴侶
マ・亜土夢・プラチッタと次の時代を生きる尊い魂・世界の子供達に「人類の叡智」として、このヨーガについての論文を捧げ、伝えます。 合掌 2002・11・吉日 玄春 記す 「ヨーガとは何か?」 上 野 玄 春
目 次 表 紙 絵・上野玄春 謝の言葉 1p 要 約 3p 序 文 4p 第1章
ヨーガとは何か 6p ヨーガの八支則/ヨーガの流れ/ヨーガの人体宇宙観/仏教とヨーガ 第3章 ヨーガセラピーとしての身心八統道
22p 身心八統道/相乗の原理 (1)肉体篇(息・食・浴・動) 24p (A)血の質 @呼吸法 A食事法 24p (B)血の流れ B皮膚法 C整体法 34p (2)精神篇(覚・心・愛・修) /五大について
38p (C)心の質 D解脱法 E唯心法 39p(D)心の流れ F愛行法 G修行法 40p 第4章 私とヨーガの出会い (1)旅のために
42p (2)聖地巡礼 46p(3)看病と断食 49P
(4)万 葉 52p 結 論
53p
参考文献 55p
要 約 ヨーガとは「私とは何か? そしてその存在が、宇宙や自然や社会との関わりの中で如何に調和を持って幸福に生きるか?」というテーマを古代の賢人や聖人、そして名もなき修行者達が何千年にも亘って探求し、実践し、「人類の叡智」として私達に伝承されてきた「生命の思想と実践法」です。そして、そのヨーガの思想と技法は、世界の様々な宗教の中にも共通して含まれる生命の智恵でもあり、現代の科学や心理学や医学的見地から検討しても、心身の調和を失いがちな現代生活を営む私達に、大変有効な実技を伴った「生命思想」であり、「心身の健康法」でもあります。 この「人類の生命の智恵」である「ヨーガの起源」を探り、その「ヨーガの思想の原理と構造」を学び、「他の宗教との共通項」を引き出し、現代生活に生かす「具体的な思想と技法」を明らかにする事がこの論文の目的です。 これらの検討によって、ヨーガの根本教典といわれる「ヨーガ・スートラ」で述べられている基本的構造「八支則(アシュタンガ・ヨーガ)」が仏教の「八正道」と多くの共通点を持ち、ヨーガがまた陰・陽のバランスをとるという意味においては、中国の道教(TAO)の思想と合致し、又、万物の根源にプラーナ(生命の気)が宿ると考えるヨーガの思想は、自然の力としての八百万の神を拝する日本の神道と通底していることもわかります。 そしてこれらの思想の構造と技法を総合してみると、そこにおいては、「ヨーガ」とは、「結びつける」「コントロールをする」「バランスをとる」という意味において @身体と心をバランスよく結びつける。
A内なる私(真我)と大いなる我(宇宙・神)とを結びつける。
B人と人をバランスよく結びつける。という「実践的思想」=「修行法」と云えます。 それを仏教では、「三宝」として、@身体と心をバランスよく結びつけ解放した人間存在を「仏(ブッダ)」といい
A宇宙や自然の法則と自己とを調和させる生き方を「法(ダルマ)」といい、B人と人とが調和し助け合う平和な社会を「僧(サンガ)」といって尊んだのです。 そして、このことは、仏教とヨーガを総合した、故・飯島貫実師の「身心八統道」の理論と実践法にも生かされ、バランスのよい総合的な構造を有していることが再認識されます。そこでは、小宇宙としての人間は、身体の四大(土・水・火・風)と心の四大(土・水・火・風)をバランスよくつなげる「空」(神=宇宙)なる力が働いており、私達がこれらを実感し、その行法を実践する事が日常生活で生かせる、実際的な「ヨーガ」の道である事がここで明らかにされることでしょう。 序 文 現代社会において、人々は古代の社会に比べものにならない程の物質的豊かさと、高度な文明を享受しています。科学技術や医学機器も進歩し、飛行機や高速鉄道など早くて便利な交通手段や、電話やコンピューターなど一瞬に世界と繋がる情報手段も持っています。 このような時代では、2500年程も前に釈迦牟仁仏が出家の動機とした、人類の生存における重大なテーマである生きる苦しみ、老いる悲しみ、病に罹る苦しみ、死への恐れなどが解決されていて不思議ではないのに、それにもかかわらず、依然として世界では戦争は止まず、地上の三分の二以上の人々は飢えに苦しみ、日本においては80%程の人が何らかの不健康な状態にあると云われています。また自殺者も、交通事故による死者を越え、国内では年に3万人を越すとも云われ、精神的病にかかる人も増加の一方です。 また、地球規模の過剰な炭酸ガス排出や森林伐採による温暖化や異常気象も年々増えつづけ、大気圏のオゾン層破壊による過剰な紫外線浴射による皮膚癌の恐れや化学物質による食物や自然の汚染によって、魚貝類から鳥魚類、そしてついには人類に至るまで、生命の根幹情報たる遺伝子細胞の変異を起こし始め、地上の全ての生き物の生存の危機を招いています。 もし、この状態をまねいた人類のこれまでの思想と行動を続けて行けば、人類と地球の未来には希望は持てず、人々は心を病み、体を壊し、地球という美しいバランスの取れた生命の場も壊れてしまうでしょう。 仏陀の死後500年を過ぎてから、さらに2000年経て、西洋物質科学文明の発展の思想は、食料の安定的確保と物財を貨幣による交換とその余剰物の貯蓄という方法によって、王侯貴族や国家や資本が人々に、いわゆる「豊かな生活」を見本市のようにサンプルをマスメディアによって見せて、人々の能力を引き出し、競争させ、その優秀なる成果に対して、応分の報償を与え、あるいは獲得出来るというアメリカン・ドリュームに極型的に見られるようなシステムによって成立してきた文明なのです。 そこでは、確かに外的物質の分析や研究による発明発見や科学的テクノロジーの発達によって現在のような豊かな物質文明が築かれた動因になっています。 しかしここでは競争原理による個人や自我の強化と、見本市のような物財の無限なる所有欲などの拡大をテコとする為、いつも他者と比較し、追い落とし、欲望を拡大し、潜在的な不平不満の中に暮らす生活姿勢が身につき、逆に、人間存在の幸福感に大変重要な要素である、与えられた環境に感謝し、欲望を制御し、喜びを創造する生き方や、同朋や他の生命を大切にする事、限りある地球の資源をリサイクルし自然と共存する生き方などが、なおざりになってしまったのです。 そこで、今、古来よりインドにおいて人間を現世の苦しみから救い、解脱(モクシャ)を得るための宗教的修行法として発展し、伝承されてきたヨーガの思想と実践の中に、ますます複雑化し、高度化したこの文明社会にこそ、最も必要な、人間性の回復や、心身のバランスのとり方や、社会の平和をもたらす<命の思想と具体的方法>が含まれていると考えられ、そのまさに人間科学とも言うべきヨーガの全体像をこの「ヨーガとは何か?」というテーマでここに明らかにし、これまでの歴史的人類文化の中で、宗教や芸術そして医学やスポーツなどのカテゴリーとして分かれて追求されてきた「私とは何か? 生きるという意味は何か? 幸福とは何か? 健康はどのように実現するのか? 宇宙や自然と人間はどのような関係にあるのか?」ということについて考察し、新たな人類2000年の未来を創造し、現代思想と文明に生かせる「生活思想としてのヨーガ」をここで導き出していきたいと思います。 第1章 ヨーガとは何か □ヨーガの意味と起源 ヨーガの起源をたどりますと、紀元前二千五百年程のインダス河流域のハラッパやモヘンジョダロなどの遺跡から、ヨーガの坐像の印形が出土していることから、その頃を起源としているようですが、実際に「ヨーガ」という言葉が宗教的用語として確認されているのは紀元前五百年前後のベーダンタの時代で「ヨーガ」とは「馬を車体につなぎ、その馬車をコントロールして、道をはずさず、人生の目的地へ行くこと」を意味していたのです。 カタ・ウパニシャッドでは 「真我(アートマン)を車主、 肉体を車体、理性を御者、意 「まさに智はヨーガより生じ、ヨーガなくして智は滅ぶ。その道理を知りて、ヨーガを行じ、智を増大せしめよ。」(20章282) 「智」というのは、物事を分析するだけの知識(分別知)ではなく、知に日がついて光あふれた、命の智恵「英知」と云われています。それを人々に伝える人を、かつて、日知り「聖人」と云ったのです。 このように、「ヨーガ」とは、「結びつける」「コントロールをする」「バランスをとる」という意味と、その「修行法」「技法」として発達してきたのです。 それでは何と何とを「結びつけ」「バランスをとる」のでしょうか? それは、@身体と心をバランスよく結びつける。A内なる私(真我)と大いなる我(宇宙)とを結びつける。B人と人をバランスよく結びつけることなのです。仏教では、それを三宝と云って、@身体と心をバランスよく結びつけ解放した人間存在を「仏(ブッダ)」といいA宇宙や自然の法則と自己とを調和させる生き方を「法(ダルマ)」といい、B人と人とが調和し助け合う平和な社会を「僧(サンガ)」といって尊んだのです。 そしてヨーガでは、その方法を、具体的な生活法(ヤマ・ニヤマ)、運動法(アーサナ)、呼吸法(プラーナヤーマ)、瞑想法の階梯(プラティヤハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ)そして祈りの言葉・神の名(マントラ、ジャバ)等として、私達に伝えてきているのです。 □命の根本思想 このように「ヨーガ」とは、「結びつける」「コントロールスル」「バランスをとる」その「方法」を意味しました。そこで今、自分自身や、私達を取り巻く自然界や社会を見てみますと、あらゆるものが二つの相対する性質や極をもって成立していることに気付きます。例えば、天と地、昼と夜、男と女、プラスとマイナス、吸うと吐く、右脳と左脳、緊張と弛緩、生と死、交感神経と副交感神経、苦と楽、求心力と遠心力、等々です。 これらの両極を古代の 又、日本では、男は日の子(彦)、女は日の女(姫)が結ばれることを結婚といい、日止(人)が生まれます。ですから「結び」は「産霊(むすび)」であり、天の御中主の命(太極)から、高産霊(陰)と神産霊(陽)が現れます。その後、男女の両神「いざなぎ(男神)」と「いざなみ(女神)」があらわれ、神話が展開されていきます。また、命の源であるご飯を右の手(陽)と、左の手(陰)で握ったものを「おむすび」と言います。日本では「結ぶ」ということを命のキーワードとして用いてきたのです。 キリスト教の教えの中にも次のような記述が見られます。1945年頃ナイル河上域で発見されたコプト語で書かれた「トマスによる福音書」によりますと、イエスは弟子たちに「神の国はいつ来るのか?」と聞かれて「神の国は見られる形で来るものではない。実にあなた方のただ中にあるのだ。もし人が『あなた自身の神のあかしは何ですか?』と尋ねたら『それは動きと静止です』と答えなさい。」と云っています。さらにイエスは「あなた方が、二つのものを一つに、内を外に、上を下に、男と女を一体にして、男を男でなく、女を女でなくするとき、目の変わりに目を、手のかわりに手を、像のかわりに像を作るとき、神の国に入ることができる。」と書かれています。 このように、ヒンズー教・仏教・道教・神道・キリスト教の中においても、根本的に「陰と陽をバランスよく結びつける=ヨーガ」という思想が<命の根本の思想>となっていることが理解されます。 このように「ヨーガ」とは、陰・陽両極にあるもののバランスをとることなのですが、そこには天秤における0(ゼロ)の支点のようなポイントがなければ、その働きが生まれません。その0ポイント=ニュートラルな状態を、身体的にも心の動きの上でも生み出す技法を、ヨーガでは大変重要なことと考えているのです。ヨーガの根本経典であると云われるヨーガスートラにおいては、「ヨーガとは思い計らいの心を止滅させることであり、思い計らいの心が止滅すれば、観る者たる真我はその本性にとどまる」と冒頭に述べている。この真の我たる本性の現われる状態、自然なる働きが湧き出すその自由自在の支点を、仏教では「空(くう)」と呼び、ヨーガでは「サマーディー=三昧=歓喜に満ちた梵我一如の状態=サット・チッタ・アーナンダ」といい、これが私達の<宇宙と繋がった私達の命の本体>であり、この本性を中心として私達の存在が成立していることを実感し、体験することこそヨーガの目的であり、様々な行法でもあるのです。この自分自身が偉大なる宇宙の法則の中で生かされ、常に守られているという実感と体験は、心身の健康の上でも、社会生活の上でも大変重要な役割を果たす源泉となるのです。 現代の社会では、利便性を追求した結果、高度に発達した技術や情報に囲まれ、又、利潤追求や効率化によって競争原理の中で、一人一人が孤立化し、文明の利器によって身体運動も減り、人工的環境や、マニュアル化した日常生活の中で、その対極にある自然性・総合性・協調性・感性等のバランスを失い、そのことによって、種々のストレスを生み、肉体的、精神的な不調が、病気という形で表れてきます。ちょうど、お風呂のお湯が次第に熱くなって、そのまま入っていると、やけどをしてしまうような状態になってきているのです。即ち、環境と私達生体のバランスを保つ自律神経や液体神経(ホルモン)が臨界点に達そうとしているのです。 芸術やスポーツや遊びなどは、これらのバランスを保つ重要な役割を人類に与えてきたのですが、現代では時としてこれらは消費社会の中に組み込まれ、一部の人のものになったり、又、競争原理によって逆にストレスの原因になってしまい、健康を害すことにもなります。そこで私達は、伝統的的ヨーガの思想が、人間という存在の構造をどのように捉えて来たかを見てみましょう。 健康を考える上でも重要なことですが、ヨーガの思想の源・ウパニシャッドにおいて、人間という存在の構造は五層の体(五つの鞘)をもっていると考えています。まず一番外側は
食物鞘(アンナマヤ・コーシャ)といって、いつも薪を燃やして火をおこしているように、食べ物で維持されている私達の肉体の層です。次にその内側には
A生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)といって生命エネルギーである「気(プラーナ)」が流れるでイメージとしての体の層です。その中に
B意志鞘(マノーマヤ・コーシャ)という外界の対象に反応し、五感の情報によって左右されるコロコロと変る心(モンキー・マインド)です。その内側には
C理智鞘(ヴィジナーナマヤ・コーシャ)といって、その心や記憶をコントロールする知性であり、自我といわれることもあります。そして一番奥の中心にD歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)があり、その自我を越えて無限なる宇宙とつながり、歓喜と自由と宇宙的智恵に満ちた生命そのものです。ヨーガはこれら五つの層 □ヨーガの代表的な流派 ではインドにおいて古代から発達してきたヨーガにはどんな道があるのでしょう。近代の偉大なるヨーギ、ヴィヴェカナンダ師によりますと、大きく分けて ヨーガは「行為の道・カルマーヨーガ」と、「信愛の道・バクティヨーガ」とそれをつなぐ「智恵の道・ギャーナヨーガ」があるといわれております。 いずれの道を歩むかは本人の資質や生活環境や指導者との出会い等にもよりますが、それは、山の頂上へ至る登山道のようにいずれ同じ目的地に至る道でもあり、その到達する境地を「自我を越えた神人合一状態」ともいい、「梵我一如(ブラフマン・アートマンアイキャ)」とも表わされております。 歴史的にはその時代時代の要請により様々な流派が現われていますが、ここでは佐保田鶴治先生の分類によるヨーガの代表的な流派と特徴を見て見ましょう。 @ラージャ・ヨーガ(心理的ヨーガ) ラージャとは王様という意味があり,総合的な行法を取り入れて心理的階梯を進み、悟りを開く伝統的ヨーガの道です。ヨーガスートラはここに位置づけられます。 Aハタ・ヨーガ(生理的) ハ・タとは陽と陰という意味もあり、身体を小宇宙と捉え、身体的訓練を重視し、生命力を強め,深化させた密教的なヨーガの道です。ラージャ・ヨーガの基盤にもなります。 B
ジュニャーナ・ヨーガ(哲学的) ジュニャーナとは智慧を意味して、「私は何者か?」という問いを中心にして、生命の智慧に至るヴェーダンタ哲学の流れを汲むヨーガの道です。 C
カルマ・ヨーガ(倫理的) カルマとは「行為」を意味し,社会生活の中で、自分の仕事や行為を通して、人々に奉仕することを修行として捉え、神聖なものへと至るヨーガの道です。 D
バクティ・ヨーガ(宗教的) バクティとは信仰とか、帰依を意味します。神に対して絶対的信頼感を持ち,神に帰依し全生活を信仰生活の中に生きるヨーガです。寺院や施設などで奉仕の生活をしたり、聖地を遊行したりする道です。 E
マントラ・ヨーガ(呪法的) マントラとは「真言」と訳されています。神の名や,短い祈りの言葉を繰り返し唱える事によって大いなる存在と一体になる方法を中心とするヨーガの道です。日本では,念仏や唱題や真言がそれにあたります。 その他にも、クリヤー・ヨーガ(儀式的)、クンダリーニ・ヨーガ(超能力的)、ラヤ・ヨーガ(心霊的)等もあげられますが、いずれの流派も実際には、これらの要素や特徴を、人や条件に応じて組み合わせられ行じられていますし、また世界の様々な宗教や宗派の特徴や傾向を理解する上でも、このヨーガの行法的分類は、役に立つ事と思います。 第2章
パタンジャリのヨーガスートラ □ヨーガの八支則(アシュタンガ・ヨーガ) それでは、これら総合的なラージャヨーガの代表的な教典、パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」に添ってヨーガの構造や行法を見ていきましょう。 この教典はパタンジャリという聖人によって紀元前から綿々と受け継がれたヨーガを、紀元後4〜6世紀頃に記述され完成されたといわれている教典です。 八段階の積み重ねによって構成されているので、アシュタンガ(8つの部分=八支則の)ヨーガと云われています。 この総合的なヨーガの行法は、その目的に到達するために、日常の生活においての行動の規範である禁戒や勧戒を山の裾野にして、段階的に体を整え、呼吸を整えながら、順次に山の高みに上っていく道のようです。そして、この実践の過程において、先回お話した五つの鞘からなる総合的な私達の存在の各層に働きかけ、人間が本来備えている肉体と精神とそして霊性の資質や能力が高められ、バランスあるものとなり、心身の健康度が飛躍的に高まり,その人自身の生き方(自己実現)に多大な実りをもたらすものとなります。 第一段階 「禁戒(きんかい)」= ヤマ 心の平安を得るためには、他者とのエネルギーの交流の中に私達の存在が成立しているという事実にめざめ、自ら発する他者への行為を良好にする事が大切です。これは「出したエネルギーの質が、何らかの形で、同じ質のものが当人に帰ってくる」と云うカルマの法則を基盤にしています。 禁戒の後に勧戒という順序は、命に良い事をなす前に、まず命を害するものをとり除くという事が先決で、医学でいえば薬を飲む前に、毒を吐き出させるという事になります。これを「金剛律(ダイヤモンドの戒律)」の後に「黄金律(黄金の戒律)」という順序となります。 ヨーガ・スートラでは、次の最も基本的な五つの生活法則を示しています。 @ 非暴力(アヒンサ)…仏教では不殺生戒 生きとし生けるものに無用な暴力、殺生をくわえない。 すると、害されなくなる。 A 正直(サティア)…仏教では不妄語戒 言葉と行動を一致させ誠実なものとする。すると、信頼を得る。 B 不盗(アステーヤ)…仏教では不盗戒 他人の物、時間、喜びなどを不当に盗らない。 すると、豊かになる。 C 梵行(ブラフマチャリヤ)…仏教では不邪淫戒 性的エネルギーを適切にコントロールする。 すると、強健になる。 D 非所有(アパリグラハ)…仏教では不貪戒(または不飲酒戒) 所有欲を克服し、ものに執着しない。 すると、生の目的を悟る。 第二段階 「勧戒(かんかい)」= ニヤマ この地上において、本来の自己を実現するためには、日々の暮らしの中での良い生活習慣の積み重ねが最も大切です。 この勧戒は、自分自身の生活態度を改善し、心身ともに霊性を高める五つの生活法則「黄金律」が説かれています。 @
清浄(シャウチャ)…ヨーガにおいての清浄とは、外面と内面双方にお ける清潔さが求められています。肉体的な浄化法と心的な浄化法(慈悲喜捨)がそれにあたります。 A
知足(サントーシャ)…与えられた環境・現状をまず受け入れ、感謝し 肯定の姿勢から物事に対処していく態度です。 B
精進(タパス)… 日常において自らに課した「行」や仕事の積み重ね によって心身を強いものにして目標の実現力を高めます。 C
読誦(スヴァーディヤーヤ)…常に聖典を読んだり、真言を唱え、「生命 の智慧」の理解と学習を怠らない事です。 D
自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)…各自を守っているハイ ヤーセルフともいうべき守護神に、人生における気高い目的の達成を常に祈り願う事です。 第三段階 「体位法(たいいほう)」= アーサナ いよいよヨーガの特徴である、いわゆるポーズの段階になります。アーサナという名詞は、「座る」という動詞のアースから転化したもので、元来、「瞑想」を主な行法とするヨーガは、座ることが基本でした。およそアーサナ(座法=体位法)は大別して
@瞑想の為のもの
Aリラックスの為のもの
B身体を造る為のものとに分けられます。
一説ではシヴァ神は、8400万のアーサナを説いたと云われていますが、その中でも84のアーサナが優れていると云い、他のヨーガ教典では32種類のアーサナを説いています。現在でも、立位、座位、寝位のヴァリエーション(変形)を入れると、多くの種類になりますが、いずれにしても、ゆっくりとした呼吸と共に、身体のその一定の型を通して、動く瞑想、体を使った祈りと云った状態をめざし、身体的な健康を実現します。この領域はアンナマヤ・コーシャ(食物鞘)の調整になります。 アーサナを日常生活の中で規則的に、一定の時間行じていくと、身体的には、血行を促し、筋肉、骨格、内臓器官、神経、ホルモン体などに良い影響を与え、ひいては、心の状態を安定させ、各人の性格や、生き方にも多大な影響を与えることとなります。 ヨーガスートラにおいてはこのアーサナを以下のように定義しています。 「座法(アーサナ)は安定していて、快適なものでなくてはならない」(U−4) 「緊張をゆるめ、心を無辺なものへ合一させなくてはならない。」(U−47) 「そのとき行者はもはや、寒熱、苦楽、毀誉、褒貶等の対立状況に害されない。 (U−48) ※実際のアーサナの代表的な形と種類は後の「身心八統道」の項で説明いたします。 第四段階 「調気法(ちょうきほう)」= プラーナーヤーマ 調気法とは、宇宙のエネルギー=プラーナ(生命力)を呼吸法によって、コントロール(アーヤーマ)する行法です。様々に工夫された呼吸法によって、酸素を体内に取り入れ、血液を燃焼させ、生命エネルギーに転換する作用に加え、交感神経と副交感神経のバランスをとったり、感情とリンクして心の状態をコントロールのよすがともなるのです。そのことにより心肺機能を高め、病気を追放して、静かで落ち着いた心をはぐくみ、霊妙なる「宇宙の気」と交流します。この領域はプラーナヤマ・コーシャ(生気鞘)の調整になります。 ヨーガスートラにおいては「プラーナヤーマを行ずる事によって、心の輝きを覆い隠している煩悩が消える」「その外、心が色々な凝念に堪えられるようになる」(U−52・53)と述べられています。 ※ 実際の種類と技法は「身心八統道」の項に譲ります。 第五段階 「制感(せいかん)」= プラティヤハーラ プラティヤハーラとは「向けて集める」という意味です。ここから、今までの身体生理的な部門から、心理的な部門へと入る掛け橋となるのがこのプラティヤハーラの段階です。 座法や呼吸法の後、意志的な「動作を納めて」、瞑想の姿勢に入ります。その時、生じてくる静けさの中にて、外の世界に向かう心や、感覚を対象から離し、意思の働きを内部に向けて、冷静に自己をみつめる心理作業の準備となります。外界の対象をはからずも、つかみ、つかまれている自分の思考と五感はおのずから、その対象から離れ、内面へと集中していく行法は、絶えず心を悩ませ、不安を与える問題から一旦心を引き離し、「なにものにも囚われない自在な心」にリセットするきっかけを作ります。この領域は、マノーマヤ・コーシャ(意思鞘)の調整に入ってきます。 ヨーガスートラにおいては「諸感覚器官がそれぞれの対象に結びつかず、あたかも心素(チッタ)自体に似たものの如くになるのが、制感(プラティヤハーラ)である」(U−54)と述べられている。 第六段階 「凝念(ぎょうねん)」= ダーラナー 凝念は、心をある一点にとどめて動かさないことです。この凝念と次の静慮、三昧の段階は実際には、はっきり分割できない一連の心理的流れとなり、一括して<統制(サンヤマ)>とよばれます。ここでは、主にロウソクの炎とか、特定の図形や、自分のみけんの一点に心を集中するとか、ひとつのテーマにイメージを集中する方法などを用います。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の調整に入ってきます。 ヨーガスートラにおいては「凝念(ダラーナ)とは、心素(チッタ)を特定の対象物(場所)に縛り付けておくことである。」(V−1)と述べられている。 第七段階 「静慮(じょうりょ)」= ディヤーナ 凝念で一点に集中していた心が、その対象と同化し始め、それを中心にして、日常の意識を超えてある種の「洞察」や「ひらめき」が起こり、広く深く、自由に展開されていく状態のことです。その直感的映像や思考は、やがて自我の認識領域を越えて、新たなる「生命の智」をもたらす領域へと導いていきます。この「ディヤーナ」を中国で音訳し「禅那」となり、日本に渡って「禅」となっています。この領域は、ヴィジナーナマヤ・コーシャ(理智鞘)の中心的調整作業に入ってきます。 ヨーガスートラにおいては「その対象に対する想念が、ひとつの不断の流れになっているのがディヤーナ(静慮)である。」(V−2)と述べられている。 第八段階 「三昧(さんまい)」= サマーディ 自我の認識領域を越え、「生命の智」をもたらす領域の中に入ります。「梵我一如」の心境で対象も主体も、ともに合一した状態をいいます。仏教では、これを<空>といいあらわしていますが、この境地は「なにもない」という意味ではなく、直感的洞察や啓示の場であり、宇宙的意識の働く空間でもあります。そこでは、きわめて鮮明で充実した内容をもって、その味わいは、まさに新たな生命感と、宇宙的啓示と、感涙の時となります。ここは、アーナンダマヤ・コーシャ(歓喜鞘)の開示される領域になってきます。 ヨーガ・スートラにおいては、この体験を「真我がその周囲を取り巻いている自然的存在と自分とを混同していた過失に気づいて、その束縛から脱出することである」と説明しています。 これがヨーガ・スートラの八支則についての構造と行法の概要になります。 古代から伝承され、発達してきたヨーガの思想と行法は、紀元前後にヴェーダンタ哲学を基盤にし、「人生の苦しみからの解脱」を説く「空」なるものの悟りの教えである仏教を生み、その影響をうけながら、やがて、観照者たる純粋精神(プルシャ)と現象する根本原質(プラクリティ)の二元論を説くサ−ンキャ哲学を理論的支柱として、今、検討しました「ラージャ・ヨーガ」の体系であるヨーガスートラが6世紀の頃に成立しました。 ほぼ同時代に併行して、インド思想の原点といわれる叙事詩マハーバラータの成立(BC2世紀〜AD4世紀)によって、神への愛と奉仕の道「バクティ・ヨーガ」、行為による悟りの道「カルマ・ヨーガ」、智恵と悟りの道「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれ、8世紀にはヴェーダンタの学匠シャンカラ(700〜750頃)によって仏教やヒンズー教を統一する教え=この世はブラフマンという絶対の現われであるという「不二一元論」が生まれ、その後の、インド宗教哲学の中心思想となります。 やがて10世紀を過ぎますと、これまで顕教的、心理的な「私∞宇宙」に対するアプローチから、密教的、感性的「私=宇宙」の捉え方に移行してきました。これをタントリズムといいます。これは現世を苦の世界として否定し解脱を得るという思想から、この世界こそブラフマンの現われであり、陰・陽の原理によって成立しているという現世肯定的な思想の当然の帰結となります。そのことは、人体こそ宇宙(梵)の構造そのものであり、神はその中に宿る生命意識(真我)そのものであるという認識により、その体験を感得する様々な身体技法が考えられ、発達してきました。 13世紀頃になりますと、ヨーガにおいてはその密教的タントリズムの特徴をもった「ハタヨーガ」の教典が聖者ゴーラクシャ・ナータによって書かれ、その後15〜16世紀頃には「ハタヨーガ・プラディーピカ」や「ゲーランダ・サンヒター」や「シヴァ・サンヒター」などが成立してきます。 ここでは、様々なヨーガの身体技法や呼吸法や瞑想によって、独自な人体宇宙観が形成され梵我一如の思想が顕現されていきます。その一端を図示し解説を加えていきましょう。 □ヨーガの人体宇宙観 ヨーガにおいては生命の源は宇宙の気=プラーナであると考えられています。 この宇宙の気=プラーナが人体を満たし、宇宙の雛型である私達を生かし、宇宙もまた私達の雛型であると考えらているのです。そのプラーナが人体を通る道 このスシュムナー管が頭頂から脊髄の基底部へと通り、人体の中軸となり、天と地を貫くプラーナの通り道となります。宇宙の生命エネルギーであるプラーナは人体の中ではクンダリーニ・シャクティと呼ばれ、このスシュムナーの基底部で三巻き半のとぐろを巻いている蛇と隠喩されています。またこのスシュムナー管を通る生命エネルギー(クンダリーニ・シャクティ)は、そのの中に7つあるといわれる蓮華の花に喩えられるチャクラ(輪=センター)を経過し、次第にそれらを開花(活発化)させて行きます。 これらチャクラは、ヨーガに基づいた生活をしていると、徐々に活性化されて行くものですが、クンダリーニ・ヨーガとは、ムードラやバンダ等を用いた特殊な体位法や呼吸法、瞑想法等の修行によって、より効果的にその眠っている生命力の源、クンダリ−ニ・シャクティ(女神)を目覚めさせ、それぞれのチャクラを活性化させ、眉間の部位(アジナ・チャクラ)で待っているといわれるシヴァ神(男神)と合体し、体内の歓喜のエネルギー(プラーナ)を宇宙全体に解放し、梵我一如(ブラフマン・アートマン・アイキャ)の体験を実現しようと発達したヨーガの体系です。このクンダリーニ・ヨーガといわれる中には、タントラ・ヨーガやハタ・ヨーガ等が入ります。このスシュムナー管を中軸にして、イダーとピンガラーという二つの拮抗したエネルギーの流れる代表的なナーディ管がチャクラをはさんで左右交叉しながら通っていると考えられている。これらはあたかも現代の医学においての交感神経と副交換神経の働きを指しているようであり、また、そのチャクラ(輪)という微細体のセンターも、医学的には、各種のホルモン体の位置に対応しているとも考えられている。 ・
イダー(月の気道) イダーは月に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陰の性質」を受け持ち、冷やす・静的・女性・精神性等が優位になります。上部では左の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、副交感神経を刺激し、また、交叉して右脳(感性)を活発化いたします。 ・ピンガラー(太陽の気道) ピンガラーは太陽に象徴され、このイダーを通るプラーナの流れは「陽の性質」を受け持ち、暖める・活動的・男性・行動性等が優位になります。上部では右の鼻腔に通じています。ですから片鼻のアヌローマ・ヴィロマなどで、こちらを優位に呼吸をすると、交感神経を刺激し、また、交叉して左脳(理性)を活発化いたします。 [チャクラについて] これらはプラーナマヤ・コーシャ(微細体=イメージ体)上のものであるので、修行者やその状態によって、異なる場合がありますが、脊椎の基底部から上にスシュムナーに添って、順に説明していきましょう。 ムーラダーラ・チャクラ ムーラは「根」「土台」、アーダーラは「支え」「支柱」の意味です。人体においては最下部にあり生命力の源・クンダリーニ・シャクティの内蔵されている場所です。会陰部、または肛門と関わりがあります。瞑想によって、4枚の花弁があり、燃えるような金色をしていると捉えられている。 スヴァディシュターナ・チャクラ スヴァは、「自身の」「私の」、アディシュターナは「状態」「立場」の意味です。人体において性器の辺りにあり、宇宙の気の出入りを司ります。瞑想によって、6枚の花弁があり、血のような赤色をしていると捉えられている。 マニプラ・チャクラ マニは「宝石」、プーラは「町」の意味です。人体において臍の辺りにあり、内蔵の働きを調節する太陽神経叢にあたると云われている。瞑想によって、10枚の花弁があり、火をあらわすオレンジ色をしていると捉えられている。 アナーハタ・チャクラ アナーハタとは「打たれざる」「触れざる」という意味です。人体において胸あるいは心臓の辺りにあり、打たれざる音・「ナーダ音」がします。血液の循環とともに感情のセンターでもあり真我のとどまっている所です。胸腺とも関わりがあります。瞑想によって、12枚の花弁があり、蕾のような内部は緑がかった輝く光で、外側はピンクのバラ色をしていると捉えられている。 ヴィシュダ・チャクラ ヴィシュダは、「清浄にされた」の意味です。人体において喉の辺りにあり、 言葉を司り、興奮ホルモンを分泌する甲状腺とも関わりがあります。瞑想によって、26枚の花弁があり、海のような色をしていると捉えられている。 アージニャ・チャクラ アージニャは「命令」「指揮」の意味。人体においては眉間の辺りにあり、第三(霊視)の目であり、命の統合・命令・調整を司ります。脳下垂体や視床下部とも関わりがあります。瞑想によって、2枚の花弁があり、白光色をしていると捉えられている。 サハスララ・チャクラ サハスラは「千」の意味。千の花弁を持つ蓮華のチャクラと云われています。人体においては脳の中、そして頭頂から天に開いています。アージニャ・チャクラでシヴァ神(智恵)とシャクティ女神(生命力=クンダリーニ)が合体しブラフマ・ランドラ(結節)を突き抜けて頭頂へ至り梵我一如の境地を得て、サハスラを経て宇宙へ至ります。千枚の花弁があり、光の虹色をしていると捉えられている。 □仏教とヨーガ およそ2500年前、インドにおいて、夜明けの明星がひときわ輝いた、ある暁の時、菩提樹の下にて「奇なるかな、奇なるかな、天地一切のもの、はじめより仏の妙相を具す!」と感嘆し、深い瞑想より目覚めたゴータマ・シッタルダの悟りによって始まった仏教は、この論考の始めの頃にお話しましたように、王子が29歳の時に宮廷を出てから後、6年間の厳しい修行を経て達成されたものでした。 ・シッタルダの修行 シッタルダは出家した後どんな修行をしたのでしょうか? カピラ城を出たシッタルダは、それまで王子時代に天地開闢についての神話や、祭祀の方法や、祈りの言葉について書かれたアーリヤ民族系の古典である「ベーダ聖典」を学び、さらに当時の奥義書と言われる、不滅霊魂の業による生死輪廻転生を説く「ウパニシャド」思想をすでに学んでいたはずです。仏伝によりますと、その後、林野を遊行し、ウッダカ仙人に就いて修行し、「無所有にして無色界そして寂静の境地」を得て後、アララカーラマ仙人に就いて修行し、事実に基づいた記憶であれ、夢であれ、それらを生む地水火風空の五大であれ、万物は転変する自我の幻影(マ−ヤ)と説く「非想非々想の境地」を得て、なおも生きる意味を問いつづけ、かつて誰も体験しなかったと云われるほどの様々な苦行や断食行を実践し、激烈な瞑想したと云われています。まさしくそれは当時のヨーガの行そのものであったと考えられます。そして得られた無上正等覚=全てのものは連続しながら相互依存していて、変化し、循環するという「空」の思想と、それ故、修行によって、業(カルマ)による輪廻転生から解脱できるのであって、永劫不滅なる「我なる霊魂は無い」とする「無我」の思想が生まれたのです。この「無我の思想」が当時のウパニシャドなどでは、永遠不滅なる霊魂「真我(アートマン)」の存在が宗教思想の中心になっていましたので、仏教は無神論の一種と考えられていたようです。 ・
仏陀の教え そこでは、仏陀は、人生とは生きる苦しみ(生)、老いる苦しみ(老)、病による苦しみ(病)、死による苦しみ(死)に常におびやかされ、心はいつも、会いたくない人に会わねばならない憂い(憂)や、逆に、会いたい人に会えない悲しみ(悲)や、欲しいと思うものが得られない苦しみ(苦)や、常に生理的な欲求が次々に生まれ苦しめられている(悩)と見ています(一切皆苦)。この苦しみには原因があり、一人一人の中には、個の受精以前の32億年を越える生命の歴史の記憶(業=カルマ)があり、又、生まれてからも環境や日常生活の過ごし方の積み重ねの結果が現在の私達の姿であることを説きます。(十二因縁の法) ・
八正道 それゆえ、これらの苦しみを減じるには、その原因である日常の暮らしや習慣を正しいものにする事が良い結果を生み、解脱を得る。と説きます(四諦)。 それには八つのポイントがあるといいます。 即ち、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい職業、正しい努力、正しい願い、正しい瞑想といいます。正しいとは調和のとれたということであり、それを仏教では「中道」といい「八正道」ともいいます。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定という日常の暮らしの教えがそれです。 なかでもヨーガの見地から見れば、仏教は、三毒とよばれる「貪り」(タマス・グナ)と、「怒り」(ラジャス・グナに対応)と、「無知」(サットバ・グナの不在に対応)から生まれる人生の苦しみから解放されるために、「諸行無常…この世の全てのものは変化する」「諸法無我…それ故、自分自身も例外ではない」「涅槃寂静…この欲界への執着を落とせば自在無碍・空となる」の「三法印」を悟る「智慧のヨーガ(ジュニャーナ・ヨーガ)」の傾向を多く持っている思想と云えます。 「正見」とは「三法印」そのもので世界を理解する事をさします。 また、仏教では「智の目、行の足」と言われるように、その<仏の智慧>を得るためにも、又、悟りの後においても、日々暮らしの中で、心身の調和の取れた「八正道」に基づく生活こそが大切な事と説きました。先に述べたように法句経(ダンマ・パダ)においては、「まさに智はヨーガより生じ、ヨーガなくして智は滅ぶ。その道理を知りて、ヨーガを行じ、智を増大せしめよ。」(20章282)とヨーガの行を必須のものと捉えているのです。 その後、仏教は、アショカ王(BC3世紀)らの信仰によってインド国内に広がり、発展しながら、ヨーガ・スートラにおける理論的支柱になっているサーンキャ哲学(数論派)等、当時の宗教思想に多大な影響を与えています。 このようにヨーガと仏教、そしてその後のヒンズー教は、古代のヴェーダ教典や、ウパニシャッドの思想を背景としながら、相互に影響し合い、発展してきたのです。その後、8世紀に「不二一元論」を説くシャンカラによってそれらの流れが理論的にも統一されインドの宗教思想の中軸をなしてきたのです。 第3章 ヨーガセラピーとしての身心八統道 □身心八統道 ちょうどこのシャンカラが8世紀に、ヒンズー教と仏教の理論的統一をなしたのと同様に、仏教の「八正道」やヨーガの思想を、現代において、私達の日々の生活に生かせるようにと、自らの体験を基に組み立てられたのが、「仏教ヨーガ入門」を著した飯島貫実師(1914〜1992)による「身心八統道」(しんじんはっとうどう)なのです。 ここでは、仏教の「八正道」は勿論のこと、現代の生理学や自然医学の成果を基盤に、ヨーガの陰陽の原理、そしてヨーガスートラの八支則、さらには、仏教やウパニシャッドによる地・水・火・風・空の自然の五大思想によって人間を総合的に理解し、又、私達の心身の健康に役に立つように、また宗教間の争いをなくし、社会の平和を願って、総合的で、調和のとれた思想を、明確にそして具体的に提示されているのです。それではこれからその「身心八統道」を検討していきましょう。 □
相乗の原理 特に注目すべき点は、貫実師は陰と陽の組み合わせを、単にバランス原理の問題と捉えるだけでなく、健康や自然治癒力においても、その効果や力を倍化(相乗)するものとして捉えている事なのです。 貫実師はこのように言います「二本の足で一時間で4キロ歩けた人が、片足でその半分の2キロを歩けますか?」と、又「双翼で飛ぶ鳥は、片翼でその半分を飛べるだろうか?
ここがヨーガの陰陽の原理の急所です」と。即ち陰陽、双方バランスよく繋げる(結ぶ=ヨーガする)ことによって、足し算ではなく、掛け算の効果がある事・「相乗の原理」を私達に諭し、実行を促したのです。そして体と心は表裏一体であり、体が病めば心が病み、心が病めば体も病む、その双方からのアプローチによって、人間総体の健康と幸福を実現しようと、図のような「身心八統道」の理解図を示してくれたのです。 そして「体の健康」のポイントは「血の質と流れ」、「心の健康」のポイントは同じく、「心の質と流れ」にある事を見抜きそれを解決する方法を示しています。 ヨーガでは物事の理解と悟りのプロセスを
@聴聞(シャラヴァナ)
A熟考(マナナ)
B深い瞑想(ニディディヤーサナ)そして
C悟り(ギャーナ)と云います。
科学的手法で言いますと
@仮説
A実験
B検証
C法則となります。 ぜひ皆さんこの「身心八統道」の理解図を熟考・瞑想してみて下さい。 ※ちなみにこの図と先に図示しました太極の構造の図とを比較・参照してみてください。 「肉体篇」 (息・食・浴・動)
それでは、「身心道理解法」の図を参照しながら、検討を進めていきましょう。 勿論、肉体篇といっても、飯島貫実師の言い方によれば、「表だけの紙や、裏だけの紙が無いように、心と身体は切り離せないものであり、陰陽をなして一体です。また、心とは身体、吸い取り紙のようなもので、表にインクがし沁みれば、裏にもすぐ沁みが出来ます。」この関係を知った上で、まずは肉体の健康の方から話を進めていきましょう。 ・母なる海 私達人間の生命は、生物発生学的に見ますと、太古の生命の海を故郷とし、32億年もの歳月を経て、その生命の海をアメーバーのように、細胞膜の中や体内に取り入れて、栄養を入れては出し、出しては入れて、生まれ代わり、死に変わりしながら、魚の時代や爬虫類の時代、はたまた鳥の時代や、獣の時代を経て、現在の身体を獲得してきたと云えるでしょう。それ故に、又、同様に、私達は誰もが個体として、母親の胎内で受精した後、子宮の中で、その32億年の歴史を、およそ40週で胎児として、追体験してこの地上に生まれ出ます。そのことを「個体発生は系統発生を繰り返す。」と生物学では云います。 また、その子宮の中の体液こそは、太古の海であり、「羊水」と云うのは、さんずいを付けて「洋水」の事なのです。即ち誰もが、「母なる海の水」に抱かれ、満たされて生まれてきたのです。ですから、宇宙から、命を産む力を与えられた女性は、成長すると、月の公転の引力によって、満ち干きを繰り返す「海のリズム」を体内に宿すようになるのです。それを「月経」、生命の「生理」というのです。まさに宇宙の神秘としか云いようがありませんね。このような意味で血潮=血液こそ私達の命の源泉なのです。 そして海には、きれいに澄んで、魚や、サンゴや海藻などのバランスのとれた生態系を持つ「生きた海」と、ヘドロや赤潮で澱んだ「死んだ海」があります。それと同じように、私達の血液も健全な血液と、不健全な血液の状態があるのです。それを見抜き、アドバイスを送るのが本来の医学の役割なのです。「自然医学」の最も重要な使命はここにあると云えるでしょう。 (A)血の質 さてその血液の質は何によって決まるのでしょう? そうです、体内に取り入れた食べ物と、それを完全燃焼させる、酸素の補給が欠かせない条件です。酸素不足ですと、ストーブの中で石炭がくすぶって燃えないのと同じ原理です。これが私達が呼吸をしている第一の理由です。ところが、心配事や、恐れ、不安が多いと、呼吸は浅くなり、血が完全燃焼してくれません。逆に、快活で、良く笑い、物事の良い面を積極的に認める人は呼吸も深く、食べ物も良く燃え、血液が、病原菌の繁殖しにくい「生きた海」=健全な状態になってしまうのです。「笑う門には福来る」です。 このようなわけで、身体の基=血液の質を良くするのは食べ物の摂り方と呼吸の仕方が自然に叶ったものに成っているか否かなのです。そこでもし私達が、健康な状態でないとすれば、それまでの無意識で行なっている片寄った習慣や、好みなどで行なっている間違った方法を、適正なものに修正しなければなりません。息=生き方を学ぶ事であり、食い=悔い改めなのです。それをヨーガでは、呼吸法と云い、食事法として私達に伝えて来てくれているのです。 @
呼吸法(息) 呼吸の目的は、まず酸素を体内に入れ血液を燃やし、生命のエネルギーを作る事にあります。勿論、その空気の中には酸素以外に窒素や幾十の元素を配していて、人間に最もよい宇宙の気(プラーナ)となっています。それで呼吸法を「プラーナヤーマ」というのである。それ故、呼吸の仕方は全ての健康法の根幹であり、癌や高血圧症、神経痛、疲労などの根本的な解決法ともなるのです。そして呼吸法とは、普段自律神経によって自動的になされている呼吸を、意識的、意志的に訓練する事により、間違って身についてしまった浅い呼吸や、短い呼吸や、無意識上の過呼吸などを調整する方法を伴っているのです。また、呼吸は、荒れた心は荒れた呼吸、落ち着いた呼吸は落ち着いた心と云うように、こころや感情と互いに繋がっているので、心や感情のコントロール法という重要な役割を持っているのです。その他に、吸う時は、体も心も緊張し、吐く時はリラックスするという働きから交感神経と副交感神経の調整という、自律神経の訓練法ともなります。基本的なポイントは長息、止息、腹息、吐息となります。 長息 長息は「長生き」に通じます。肺は気管から段々分かれてついに7億を数える肺胞に至り、そこまで行かなければ、使われ戻ってきた静脈血を清める事は出来ないのです。細い細い7億の肺胞にまで、空気を十分に到達させるには、当然かなりの時間がかかるのでゆっくりと、十分に吸い、ゆっくり吐く長息法が勧められます。そのことは、肺の気管が保護されるばかりでなく、酸素と炭酸ガスの交換がよく行なわれて全ての細胞が喜ぶのです。日々の訓練によって、無意識に1分4回の呼吸数に達すれば、聖者の境地留めるに入ったと云われている。 留息 留息は肺活力をつけます。ヨーガでは呼吸を一時留めることを「クンパカ」といい、吸う息の後、留めるのをプーラカ・クンパカ、吐息の後、留めるのをレイチャカ・クンパカといいます。健康度を高めるためにまず、初心者は7秒で吸い、7秒で止め、7秒で吐くとよい。10回づつ朝晩2回行なえば、肺活量が増し、酸素の吸収力があがってくるのがわかるようになります。人は一日のうちで何度も無意識的に止息をしているものです。物を注意して見ようとするとき、重い物を持ち上げようとする時など集中力や筋力を高める作用があるからです。また、酸素は「脳の食物」といわれ、脳は同量の筋肉の10倍の酸素が必要とされます。酸欠になると体よりもまず脳がマヒしてしまい、大脳がやられて思考力が鈍ることもさることながら、間脳以下の自律神経が犯されて血循がとまってしまいます。カパラパティは脳に酸素を補給する呼吸法ですし、クンパカも、酸素の吸収力を高めるのトレーニングでもあります。 腹息 腹息は血循の基盤です。腹式呼吸は吐く時に腹部を引き締め、横隔膜を引き上げ、肛門を締め、吸う時に腹部を突き出し、横隔膜を引き下げ、胸郭を広げることになる。このことによって、肺臓の十分に活動させ、酸素を十分吸収するのである。それと同時に、腹筋を使う事により、腹部に鬱帯した血液の流れや、腸の蠕動などを促し、加えて丹田力(生命の意志力)を強めることになる。また腸と頭脳とは直結しているので、腸の活性化は脳の活性化である。朝と晩、瞑想の前に、5分間ほど実行する事を勧めます。 吐息 吐息はくつろぎの秘訣です。心の状態と、呼吸の形とは、まったく同じものですから、筋肉が緩めば、必ずくつろぎが来るのです。顎が緊張し続けると、あくびが出る。肩が緊張し続けるとため息が出る。昼間緊張し続けるといびきがでる。みな吐息の変形で、自然は常に、過剰緊張を緩和して健康を守ろうとして余念がないのです。息を吐くと、全身の筋肉がたちまち緩む。筋肉に付着していた凝りが、吐き出されていく。病気の素因は筋肉の凝りにあるから、それが吐く息によって消えていくとすれば、「毒を吐き出した」といっても過言ではない。笑いも大自然が人間の為に与えた、心身まるごとの健康法である。心の凝りも体もほぐれ、物事からのこだわりから解き放ち、自在観を与え、自然治癒力や免疫力を高めます。「笑う門には、福来る。」です。ヨーガでは「笑いの行法」まで考案しました。胸を広げ顔を天に向けながら、十分に吸う。吸い終わってから「ワッハッハッ」と大声で怒鳴りながら、顔を下向きに移し、息を吐き終わる。笑いの合唱の時は、拍子木を使い、ゆっくり「ハッ」と始めて、だんだん速くし、全部で13回するといい。皆ですると、天照大神の天の岩戸開きのように世界が明るくなることうけあいである。歌を歌ったり、お経を読んだりする事も吐息の行法になっている事に気づきます。 ヨーガの伝統的プラーナヤーマ インドのヨーガの伝統的思想では、この全世界の創造物の基本構造は、プラーナから生まれたと考えられています。ですから、この自然界のエネルギーは、プラーナの粗雑な現れであり、プラーナは心と物の掛け橋として働く生命原理となります。そして心は体内のプラーナの流れを変化させて、粗雑な肉体に影響を及ぼしていると考えられ、意思の働きが乱れるとプラーナの働きも乱れ、続いて呼吸作用が、不均衡になる、という具合です。 神経医学的に見ますと、低位脳の視床下部は、肉体中の全てを制御していますが、呼吸に関しては、その自律的機能にかえて、随意神経系に自分の意志で指示を出し、自分の呼吸数や、呼吸の形やリズム等を随意に変える事ができるようにもなっています。ですから、プラーナヤーマの目的とは、高位の脳中枢(神経系)が持つ能力をよく理解して、それらの能力を活用して外界の生気や内的心理器官である意思や、体内の主生気の働きを制御することとなります。 プラーナヤーマの第一ステップは呼吸の速度を普段より落とす事から始まり、第二ステップはその過程で、“気づき”を育てて行くことであり、第三ステップでは左右の鼻の呼吸のバランス保持を計り、これら段階的な訓練によって、生命の源泉プラーナの働きを、呼吸を通して、無意識での自動化運動の環を断ち切り、点、線、面、三次元空間、そして宇宙全体に遍在し、満たし、働いているプラーナの鮮明な意識化を促し、感受性の鋭敏化と意識の拡大を同時に実現させる事が重要視されているのです。 具体的な呼吸法 (1)呼吸の不均衡を正す。 カパラバーティ、アグニサーラ (2)プラーナヤーマの実習に入る。バストリカ (3)両鼻間の不均衡を意識する。 ウジャーイー、アヌロマ・ヴィロマ、 ナーディ・シュッディー (4)意識の拡大を計る。 ブラマリ−、ムールチャー (イ)点の意識を拡大させる。 ウジャーイー(喉の一点を意識する) (ロ)線の意識を拡大させる。 シ−タリー(全呼吸気道を意識する) (ハ)面の意識を拡大させる。 シートカーリーの(巻いた舌を通した サダンタ (口腔の二面の意識化) (ニ)三次元空間へと意識を拡大させる。 ブラマリー(呼気と吸気が生じさせ振動を全身で感じ取る。) ムールチャー(自然なケヴァラ・クンバカによる意識の拡大) ※
そのほかに生命力を強めるクンダリーニ・ヨーガ系の呼吸法に バンダ(喉・横隔膜・肛門の締め付け)ムドラー(その維持の形)の行法等があります。 A
食事法(食) ヨーガでは、「食は神なり」といいます。天地自然のエネルギーを食べ物として取り入れ、身体を維持し、生命活動を行なっているのですから、食の質は体や心の質まで決定してしまいます。生命力のない食べ物を取れば、生命力のない体と心となります。また自然医学では「身土不二」といい、大地から作物が出来、それを私達が食しているのですから、その土地のそれぞれの季節に取れる旬の作物が一番健康によいと考えられています。ですから、春の七草や、竹の子、夏のスイカやナス・トマト、秋のきのこや栗、冬の豆の煮物・干し柿・もち等と、太陽の光に育てられ、酵素、ミネラル、ビタミンなど季節の「気」が入っています。又、熱帯地方では体を冷やす果物が多く取れ、寒帯では体を温める動物の肉の燻製などが尊ばれます。これらの事によって食べ物には陰と陽があることを学ぶことができます。それを食べると、体を冷やし、のんびりさせ、カリウムを多く含むもの、広がるエネルギーを持った物を陰性といい、それを食べると、体を暖め、イライラさせ、ナトリウムを多く含むもの、中心に向かうエネルギーを持った物を陽性の食べ物といいます。大まかにいいますと、果物、野菜は陰、豆、穀類は中性、鳥や動物の肉は陽となります。人は生命32億年の歴史からづっと食べ物を口に入れ、肛門から出しつづけてきた結果、その入り口の歯に、自分の健康に一番よい食べ物の比率を記録し獲得してきました。歯の種類には三種類あることをお気づきでしょう。そうです、臼歯と犬歯と門歯です。臼歯は臼ですから、穀類を挽く、こなす為の歯だと言うことがわかります。では犬歯はどうでしょう?そうです、牙です。肉食動物が獲物を引きちぎるために発達した歯です。そして、門歯はうすい刃で上下がずれていて、紙を切るハサミのようです。紙のような食べ物は野菜ですよね。すると歯の数と比率は、臼歯20:犬歯4:門歯8ですから、穀類5:肉類1:野菜2が私達人類に一番バランスのとれた食べ物の比率と言う事がおわかりになると思います。 また、人間の構造は天体的な環境を反映しているため、地球の中心に向かう天体の影響力つまり求心力と、地球の自転による遠心力の比が1対7であり、人間の諸構造が1対7の比率をもつということは、食べ物、飲み物、呼吸の形で取り入れるものの摂取量にも、1対7の比率があるべきことを示唆しています。具体的にいいますと私達の物質消費量は、重量費でいって、ミネラル対たんぱく質が1対7、たんぱく質対炭水化物が1対7、炭水化物対水が1対7、水対空気が1対7の比率であるべきだと言う事である。勿論この比率は、環境や個々人の状態によって、1対5〜10の間に変化いたします。この比率で食べ物を摂取すれば、人間は環境と最高の調和を維持できるわけです。人間の食べ物の中で、無精製の穀類(玄米など)だけが、このミネラル対たんぱく質、たんぱく質対炭水化物の比率にかなっています。 それでは現代の生理学によって食物と血液と生命エネルギーとの関係はどのように捉えられているのか見てみましょう。「血液健康法」を著した岡田一好氏によれば、「食物は口、胃、十二指腸、小腸で消化される。そして大きく炭水化物、たんぱく質、脂肪の三つに分けられ、三大栄養素と呼ばれる。炭水化物はブドウ糖、たんぱく質はアミノ酸、脂肪はグリセリンと脂肪酸に、それぞれ分解される。それらは小腸から吸収され、門脈という太い静脈を通って、一旦肝臓へ集められ、そこで人体にとって有益な様々の化学変化をうけてから、心臓によって全身へと送られる。炭水化物(糖質)はエネルギーの材料、脂肪はコレステロールやエネルギーの材料、たんぱく質は全身の各組織の材料や、各種の酵素や、糖質や脂肪が不足している時のエネルギーの材料として、それぞれ主に使われる。 ところでエネルギーの材料というと、昔はよく人間の身体を自動車にたとえ、三大栄養素をガソリン、呼吸によって取り込まれた酸素を空気にたとえ、三大栄養素こそ自動車の動力、つまりエネルギー源だと説明した。だが現代ではたしかに三大栄養素はガソリンだが人体は、自動車は自動車でもガソリンでは動かない電気自動車で、エネルギー源はATP(アデノシン三燐酸)という電気であることが証明されている。糖質、脂肪、たんぱく質は さてそれでは身心道の理解表にそって、食事法をみていきましょう。 節食 節食とは余分な栄養は取らないと言う事です。現代の先進国では栄養失調より食べ過ぎで病気になっている人の方が多いのです。「腹八分目、医者いらず」といいます。一方、アフリカなど地球人口の三分の二程の人は飢えに苦しんでいるのです。フェアートレードなど、同胞愛による富の平等分配のシステムや共存の思想で経済活動を広げる事が要請されています。1人一人の生活の中では、食べ過ぎに注意をし、腸内の不消化物をためて自家中毒にならないように、間食をさけ、内蔵が休める状態を作り、快眠、快食、快便状態で過しましょう。時には断食をして腸内を大掃除する事は、病気治療上に大変効果的です。 禁食 禁食とは毒を摂らないということです。現代手に入る食料は様々な薬で汚染されている。大地の化学肥料から、殺虫剤から消毒剤、防腐剤から人工着色料、また海綿活性剤から人工調味料など細胞や遺伝子を傷つけるものに満たされている。加えて抗生物質を大量に加えた餌を与えたもの、遺伝子操作されたもの、狂牛病のウィールスに感染したものなど農業毒、工業毒、商業毒、医療毒、生物毒などが空に、海に、川に大地に満ちあふれ、世も末の状態である。当然私達の体の中はこれらのものでいっぱいである。それ故、癌、アトピー、喘息などの他、原因不明の病に多くの人が苦しみ、生殖機能も衰え、今や人類の生存の危機である。 現代に生きる人々1人一人の生命観を、自然と共存し、循環する生態系を守り、持続できる社会を築き、利潤追求を第一とする、食料生産や流通や消費者自身の根本的な価値観が変らなければ、人類は自ら作った毒によって滅びる事になるだろう。 生食 生食は体毒を一掃します。特に生野菜を中心にした生食は、ビタミンCの給源、酵素の給源、赤血球の給源、アルカリの給源となります。ビタミンCは他のビタミンの死命を制するもので、たとえ他ビタミンが十分あってもCが乏しくなると働けなくなる。また、Cが欠けると血管が破れ内出血しやすくなり、静脈瘤や脳溢血などの予防になる。また生野菜の美点の一つは酵素である。酵素は食べものを消化し、血液やエネルギーに転換する為の触媒としての大きな働きをする。生野菜は種類が異なるごとに違う酵素を持っているので、できるだけ多くの野菜を摂る事をすすめます。又、生野菜の三つめの美点は赤血球をつくることにあります。肺胞に入った酸素は、赤血球の肩に担がれて全身の細胞に配られる。呼吸も大事だが赤血球も同様に大切なのである。その生野菜の持つ葉緑素の分子構造は人間の赤血球と瓜二つ。違うのは、中心の鉄分がマグネ シウムに変っているだけである。それゆえ青汁をとる事は輸血をするが如きの効果をもたらすのです。 全食 全食とは、その食べ物の全部を食べると言う事です。大根ならその葉っぱと根、魚なら頭も骨も、お米なら精米しない玄米でと言う事である。食べものはみな「生き物」でありそれ自身生命のバランスを有している。その自然のバランスのままありがたく感謝して「生命の気」を頂くのである。そしてそのエネルギーを社会と自然にお返しできる活動に使うのである。特に主食であるお米についていえば、糠をとった、白米はもはや生きた「種子」ではなくなってしまう。白米は、ビタミンもミネラルも脂質もほとんど奪い去られている。残った糖質、たんぱく質を食べていると栄養不良を起こします。玄米を良く噛んで食べると便がしっかりし、内蔵や顔色が良くなり、体調が変化する事を実感できるでしょう。また肉食動物ですら獲物を捕ると、肉だけを食べるのではなく、むしろ内蔵から食べる事が知られています。どうぞ全食に心がけてください。 総じてみてみますと日本の伝統的な和食がいかに素晴らしいものであるかを再認識されることでしょう。現在、西洋の人々がマクロビオテック(食養法)で和食に憧れる所以です。 (B)血の流れ さて、体の健康は、血液の質が良く成っても、血循が悪くては何もなりません。「澱む水は腐る。」と云います。心臓から動脈に流れ出る血液は綺麗な赤い色をしていますが、体をめぐって帰ってくる血液は青みがかった濁った色をしています。比とめぐり22秒ばかりでたちまちそんな変わり果てた色になるのは、酸素や栄養を細胞に配達して、その代わり二酸化炭素や老廃物回収してきたからです。 この血液循環で大切な事は、血流を促しているのは、心臓よりもむしろ毛細血管であるという事実です。大地に生える木や草には心臓が見当たらないのは何故でしょう? そのヒントは木や草は末端に行くほど枝葉が分かれかかわらず、水や養分は木の根から葉の先まで循環している事に気づかれる事でしょう細くなっています。その事によって毛細管現象が働き、末端の細胞の活動と協力して、養分を吸い上げ、行きわたりやすくなっているのです。人の血管も同様に末端に行くにしたがって細くなり、末端で各細胞組織に開放され、再び末端の毛細血管で回収して静脈を通してして心臓に戻ります。このように末端の毛細血管や各細胞組織は「見えない心臓」となっているのです。 ですから、末端の毛細血管をコレステロールや老廃物で詰まらせず、各末端の細胞組織の代表である皮膚付近の細胞を刺激し、活性化する事が、血循を促し、身体の健康に大変重要なことがわかります。この心臓と「見えない心臓」の関係は、「自我」と「見えない神」との関係を暗示していませんか? さて、それでは、「身心八統道」の図にそって、血循のポイントを見て行きましょう。ここでは血循を促す方法として、体外からの刺激と、体内からの刺激の方法に分けられている事に気が付きます。それで、前者を「皮膚法」、後者を「運動法」と云っています。 B皮膚法(浴) 私達の外側は皮膚で覆われています。そして、その皮膚の機能は、汗をかく=腎臓の働きをする。毛穴で呼吸をする=肺臓の働きをしている。毛細血管を開け閉めする=心臓の働きと呼応して血循を促す。栄養を吸収しエネルギーをつくる=消化器系と各細胞の働きをしている。そして末梢神経で外の刺激を感じ反応する=脳の働きをしている。など「皮膚は外に出た内臓器官であり頭脳」なのです。 このことにより飯島貫実師はこの見逃されやすい皮膚機能の刺激を、私達の健康に、ことのほか大切な事と説いています。 光浴 光浴は骨と歯を強めます。骨も歯も主成分はカルシュウムです。カルシュウムはビタミンDがなければ骨や歯になることが出来ませんが、日光にあたると皮膚のところにビタミンDが合成されて、骨を作るのです。人間も草木も日光に当たりませんと強くは生きられません。現在では、オゾン層に穴があき午後には紫外線が強すぎて皮膚を痛めますから、午前中、できれば日の出の光を浴びましょう。ヨーガの行では、スーリヤ・ナマスカールと云って、毎朝、あさひに向かって太陽に感謝する連続した立ちポーズが伝えられています。これは全てに優先する朝の行です。日光浴の時間は度を過ぎては外になる事があります。素直な気持ちがあれば一番良い程度が自ずと判ります。 摩擦 摩擦は静脈を鍛えます。皮膚はどの一点を刺激しても体全体が反応するようにできています。ですから、鍼や灸が効くのです。また非常に敏感な組織ですので、真光などの手当法や、スキンシップなど心や感情をも癒す力を持っているのです。摩擦は主に静脈にそってすると効果的です。温冷浴の後の乾布摩擦が効果的ですが、自身の手の平で心臓に向かって、概して両側より中央、下より上へといたします。体毛の並び方と逆の方向が静脈の流れです。病身の時は生姜湯を薄めて手拭を絞って皮膚を一箇所20回程往復させるといいでしょう。 水浴 水浴は禊(みそぎ)といって日本の神道や修験道の大事な「行」になっています。このことは、霊力のある、先人達が「皮膚は外に出た内蔵であり頭脳」ですから、それを鍛える事は、頭脳を明晰にし、直感力をもたらし、新しい息吹を与えられることを十分に知っていての事でしょう。私達一般の日常生活に勧められるのは「温冷浴」です。これは「血管のヨーガ」ともいうべき健康に大変効果のあるお風呂の入り方です。良く温まった後に、水風呂か冷水シャワーを浴びた後、良く乾布摩擦をしてでるのです。断食などの時や、正式には冷から始まって5回ほど温冷を繰り返し、又、冷で出るのですが、日常では、短く省略しても十分な効果があります。体調がいまいち優れない人や、健康法やヨーガを学ぶ人は是非体験し、日常に取り入れて欲しいものです。グローマスを鍛え風邪をひきにくい体質を作り、生命の潜在能力を高めることがわかるでしょう。 風浴 風浴は皮膚呼吸を高めます。人は着物によって肌を隠し、保護し、飾る動物ですが、それに反比例して、皮膚の毒素の排出力がなくなり、風邪もひきやすく生命力が弱まってきています。できるだけ肌を空気が触れて流れるような衣服が勧められます。そして、日光浴や薄着に心がけましょう。近代健康法の先達・西勝造師は「空気浴」を高唱された方です。特に重病の人に元気をつけ、心臓、肝臓、腎臓、腸を甦らせる方法として勧めました。その具体的な方法は、窓を開けて裸になる時間と、蒲団をかけて窓を閉める時間とを交互に繰り返すのです。裸になる時間を20秒から始め順々に30秒、40秒と10秒づつ増していきます。蒲団をかぶせる時間は必ず裸になる時間より多くし、1分ないし2分暖めます。病人の容態と相談して長短を決める事を忘れてはいけません。この容量で1日2回ほど実行します。以上、これらの日光浴、風浴、温冷浴、そして摩擦や湿布などの皮膚法は、効果が絶大なので、日常の健康法としてのみならず、針や灸、そしてビワ湿布や生姜湿布、里芋パスタなどの応急処置とともに、病気の手当法にも応用されます。 C
整体法(動) 皮膚法に比べ、内側から血行を促す方法は,一般には運動法といい、骨格や姿勢、筋肉や神経を整え、血行を促すので飯島貫実師は整体法としています。 骨格が狂って神経が途絶えたから筋肉に凝りができるというのも本当ですし、筋肉が疲れて凝ったから骨格を狂わせるというのも本当です。筋肉と骨格とはやはり「陰陽」の関係にあります。 姿勢 姿勢法とは常に姿勢を正しくおいて筋肉に無理な負担をかけないようにする事です。正しい姿勢とは、骨格についてと、筋肉についての姿勢と二つあります。骨格は、その角度が大切ですし、筋肉はその柔軟度が大事です。 正しい骨格のポイントは 1.両足は垂直で内側の線は平行。 2.恥骨を後ろに強く引く。 3.背骨は真上に向かって伸ばす。 4.胸骨を前に出す。 5.顎を引く。 6.腰、肩の左右は平行。 7.鼻先と臍とは垂直。 正しい筋肉のポイント 1.足の親指に力が入っていること。
2.アキレス腱が伸びていること。 3.腰の筋肉と、お腹の筋肉との力が均衡していること。 4.みぞおち、胸、肩、顎の筋肉は柔軟であること。 5.丹田の力に力が入っており、肛門は引き締まっていること。 このようにして全身の372肩の筋肉が協力していれば、血液はよく循環して、疲労が生じないのです。 体操 体操法とは筋肉の均衡鍛錬と、狂った骨格を矯正して筋肉の凝りをとる事です。ヨーガの体操を飯島貫実師は基本体操、修正体操、徐実体操、本能体操の4つの部類に分けています。 基本体操とは、ヨーガでは一般に基本ポーズ(アーサナ)といっているものを指します。 その要領は@丹田に力を入れる事A動作は概して緩やかにし、動作の進行中は息を吐くことB体操の目的とする骨と筋とに心を集中し、移行性体操ならば、その移行に従って心が移行することC回数は概して二回し、一日朝晩二回することD体操が終わった時、必ず一分間、仰臥のまま全身弛緩する事です。 本来ヨーガの体操法(アーサナ)は身体の健康の為にだけあるのではなく、呼吸法と共に、心の調和を計り、身体で行なう「祈りの行」でもあります。 伝統的なヨーガおいては、体位法
(アーサナ)が中心になります。神話では、シヴァ神は8400万のアーサナを説いたと云われますが,その中でもハタヨーガの教典では84種が優れているといい、また「ゲーランダ・サンヒター」では人間社会に有用なものを32種挙げています。貫実師はその中から16種を基本ポーズとしてとりあげ、その機能的種類を「かがみ,反り、横曲げ、ねじり、足に首、逆さにシャーバでめでたアーサナ」と言い習わし、私達に実行を促しました。今回はその中から12種類ほど図解で挙げておきました。手術の後や、身体に損傷があったり、あまり血圧が高く不快な時等はどうぞ無理をせず、気持ちよく実行して下さい。 ヨーガでは「肉体は神殿であり、アーサナは身体を使った祈り」といいます。貫実師はこのアーサナのコツを「息に沿い、身体のびのび,言葉向け」と詠いました。ゆっくりと、息を吐きながら移行し、身体を緊張させずのびのびと、祈るようにします。「言葉向け」とは、言葉を述べる=意を宣べる=イノル=祈ることです。 ヨーガスートラによるアーサナに対する記述は@アーサナは安定していて快適なものでなくてはならない。A弛緩に努め、無辺なものと合一させなくてはならない。Bその時、二極の対立物(マーヤ)によって害されない、と述べられています。 そして運動法において、飯島貫実師が最も大切にしたのが、本能法です。馬が、一日の激しい農耕などをして、疲れや歪みが生じると、背骨を土間に打ちつけ、骨格を修正したり、猫が起きる時,全身で背伸びをするように、動物は身心の異常や不調を自分の内なる生命の趣くままに身体を動かし修正しているのです。子供の寝相が悪いのも、実は本能的に体の歪みを治している作業なのです。これらの運動は、いわば「神ながらの体操」と言えるでしょう。そのように、本能的に運動する方法を、岩田有示師は本能法として実行を促し、野口晴哉師は活元法として取り入れています。かつて空也や一遍上人らの踊り念仏や、若者達が、自由に音楽と共に踊るフリーダンス等もこの領域に入ります。 指掌 指掌法とは、指や掌をもって、筋肉の凝りを和らげ、その本能力を復活させて骨格を整えること。この領域で代表的なものは指圧法や手当法や合掌行があります。指圧のよさは、誰でも簡単に出来る事ですが、指圧の大家、浪越師の説によりますと、疲労素、つまり乳酸は、指圧することによって五分の四までがグリコーゲンに還元されて、また元のエネルギーになるといいます。またヨーガでは「手は第二の頭脳」といいます。合掌をはじめ多くの「手印」が伝えられているのも「手の姿」が直ちに「心の相」を作り、表わすからです。また指掌法の中に「手当」の行法があります。痛むときには思わず手を当てたり、子供は手を当ててあげると不安が解消され泣き止みます。手には癒す力と心が宿ります。ドイツの解剖学者マイスネル師が百年程前に、顕微鏡で掌の放射線を発見したと言われています。それは一種の酵素であり、一本の指には五万台ばかりの砲座のような小体があり、音響をたてながら酵素の弾が発射されているといわれています。しかしそれは人によって多少があり、また、感情の持ち方によって発射度が変り、愛の心を持ったときに最も良く発射されるといいます。これら、いずれも人間の手の持つ不思議な力を活用したものです。 触手は、合掌行の延長です。合掌によって体験できる功徳が、そのまま掌と体との間に流れて、」治療力を発現するのです。それ故に原則として、与え手の健康以上には、受け手の健康度は上がりません。ですから、与え手はまず自らの合掌行を行じて、おのれの健康度を引き上げておくべきです。 触手療法はまた同様に足裏の持つパワーも見逃す事は出来ません。インドでは聖者の御足に触れることはその偉大な力を頂くことであり、その習慣は、仏足石やサンダルプージャとして伝えられています。現代では山内宥厳師の足圧による「楽健法」が多くの病める人を救っています。 揺振 揺振法とは、四肢、または全身を振動させては血液の循環を促し、筋肉を回復させる事です。皮膚法のところでお話しましたように、血循は心臓と「見えない心臓」である全身の毛細血管が陰陽協力して営まれているのです。全毛細血管の数は51億本、毛細血管の直径は、萎縮した時が0.002ミリ、拡大した時が0.009ミリ、その長さは0.17ミリ。そのような莫大な数の細い血管に水の五倍の粘度を持つ血液を通過させるためには、果たしてどれだけの圧力を必要とするでしょうか。心臓の大きさはこぶし大、重さは250グラムばかり、その圧力は400グラムほど、柔らかい筋肉の塊です。毛細血管一本を通すだけでも大変な圧力を要しますが、それが51億本、か弱い心臓のできる仕事ではありません。もし一つの圧力で通すとすれば100トンばかりの圧力を必要とするといわれています。このような訳でいかに毛細血管の働きが全身の血液の循環不可欠であるかが理解された事と思います。「血循さえつけば、どんな病気でも好転する。」これがヨーガの教えです。 そこで血循を良くしようと願うならば、まず血循の動力源である「毛細血管」を鼓舞しなければならないのです。逆に心臓を鼓舞しても血循は良くならないばかりでなくむしろ大いに危険なのです。 この血循の原理を集大成した方が西勝造師です。そしてその原理に随順して奨励されたのが、「毛管運動」、「金魚運動」、「背腹運動」の三つでした。 毛管運動法 仰向けに寝て、四肢を垂直にのばして四肢を振動させます。腕と足とには全身の毛細管の75%が集まっています。それを一斉に鼓舞するのですから、全身の血管は一度によみがえります。一分間は続けて振らないと効果は出できません。 金魚法 仰向けに寝て両手の指を組んで後頭部に当てます。全身を真っ直ぐにしアキレス腱を伸ばすように足先を引き両足を発動源として全身を左右に揺するのです。これは特に、脊髄の副脱臼を修正するのに役立ちます。これも一分間以上続けぬと効果がでてきません。 背腹法 これは準備運動としてまず顎と肩を動かして緩めます。正座して両手を膝の上におき、背骨の最下部を軸として、体を右に、左にと傾けます。脊髄と頭とは一直線にしたまま揺振し、体を傾けた時、丹田に力をこめ、体を垂直にしたとき、丹田の力を緩めます。一分間50回往復の速さまで上達するように心掛け、一回10分間を限度と致します。この運動は腰部の筋肉を強くし、脊髄を支えている両側の筋肉を整調し、脳髄の毛細管現象を活発にし、丹田力を作るものです。この「背腹同時運動」は交感神経、副交感神経の均衡、血液の酸とアルカリの平衡とという大事な効果をもたらします。 以上、整体道に関して、姿勢法、体操法、指掌法、揺振法を説き、姿勢、体操は「骨二道」、指掌、揺振は「肉二道」となります。 「精神篇」 (覚・心・愛・修) それではこれから身心八統道によって説かれた私達の心のありかた・精神篇に移っていきましょう。 ・五大について 先に、太極の図でも表わしましたように、自然の根源としての太極は、まず天(陰)と地(陽)に分かれ、天(陰)は日(陽)と風(陰)に分かれ、地(陽)は大地(陽)と水(陰)に分かれていきます。「太極」とは仏教的にいえば、陰・陽を生み、陰・陽を調和させる「空」なるものと云えます。又、ヴェーダンタ・ヨーガ哲学ではアーカーシャ(虚空)といいます。 そしてヨーガや仏教では「空」からはじまる 先の肉体篇の「生命の海」で述べましたよう さて、「身体の健康」は、血液の質と流れによって決定されるので「呼吸法」(息)=風の要素、「食事法」(食)=土の要素、「皮膚法」(浴)=水の要素、「整体法」(動)=火の要素があったように、「心の健康」も、心の質を高め、心の流れを良くすることです。心の質は「解脱法」(覚)=「風のココロ」、と「唯心法」(心)=「土のココロ」、心の流れは、「愛行法」(愛)=「水のココロ」と「修行法」(修)は「火のココロ」となります。そして身体の四大(土・水・火・風)とこころの四大(土・水・火・風)をバランスよくつなげる(ヨーガ=結ぶ=産霊)のが「空」の要素となります。 ■「解脱法」 風のココロ=自在無碍になる。 (覚) さて心の質はどのように高めていくのでしょうか? こころもヨーガでいえば、プラーナ(気)の働きであり、気の現れです。ですから心の質とは気質(かたぎ)です。職人気質とか、親分気質などといわれる、その人の性質を作ります。何ものにもとらわれず自由自在な気質とは、「風のココロ」です。風の特質は一切無障碍といって、障害物があってもさっとどこでも自由に空間の中を流れ広がり、こだわりや執着がないことです。このこだわりのない自由自在な気質を得るには、私達が何物で、どこからやってきて、この世界ででどのように存在し、生かされ、去っていくのかを理解する事から得ることができます。それは私達が宇宙のエネルギー(神)によって生かされ、その宇宙のエネルギーの分身であり、その宇宙のエネルギーそのものである事を悟ることです。その方法は学問からでも、体験からでも、直感からでも、瞑想からでもあらゆる方法か理解していくことです。自分が「神」(宇宙のエネルギー)そのものである事を知ること。現在の自分の限定された環境や条件や苦悩から一旦解き放たれた視点を持つこころです。それを「解脱法」=地上的束縛からの「超越の原理」と云います。それはたとえば、お腹の中にいる一粒のイクラが母なるシャケの愛を感じる事であり、私達の血液が海の水と等しい事を知ることであり、太陽と地球の関係を知ることであり、エネルギー不変の法則や量子力学など物理学の法則が心の法則と通じている事を知ることでもあります。それは即ち、火(か)・水(み)の原理を知ることであり、自分を知ることです。仏教ではそれを「三法印」の教えと云い、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静を悟ることとなります。「諸行無常」とはこの地上に生まれたものは滅び、一切のものは変化するという事を悟るということであり、「諸法無我」とはこの地上の全ての物が相互に関係し合って変化しているのだから、自分もまたその中に組み込まれていると悟る事です。「涅槃寂静」とはしかし、命は本来、宇宙からやってきて宇宙によって支えられているのだから地上の原理を超えて、自由自在、一切無障碍の力を無限に秘めている存在である事を知ることです。 ■「唯心法」 大地のココロ=安心立命を得る。 (心) 地上を超越し、宇宙の原理の存在と力を自らのうちに発見できましたら、まずは自分の足元(大地)から天国(常・楽・我・浄)を一歩づつ作り出すという作業に入ります。「常」とはいつも健康な生活をおくる道を実行する。「楽」とはいつも楽しい生活をおくる道を実行する。「我」とはいつも自由な生活をおくる道を実行する。「浄」とはいつも清らかで、美しい生活をおくる道を実行する、ということです。この唯心法を「創造の原理」と云います。世間は自らの「想い」の現れと知り、世界を変えるにはまず中軸になる自分をまず変えることから始め、他を批判するより、自分を変革し、力をつけ、自己教育して、自分の足元の身近な環境から変え、理想の世界を創造して行くことです。仏教では「無明」から始まる「十二因縁」による、「因果の法則」の教えであり、個々人においては「五蘊」の教えになります。法華経では「十如是」の教えになっています。即ち、この地上の相互関連の法則=原因と結果の法則=「因縁の法則」を学び、使い、世界を創造する事です。「十二因縁」とはブッタが最初に鹿野苑で五人の弟子に説いたといわれるもので、私達はどのようにして宇宙からやってきて、心と体を形成し、世間を作り、また宇宙へ戻っていくのかを無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死と示し説いています。また「五蘊」の教えとは私達の心は色→受→想→行→識のサイクルの中にあるので、それをよく知りその原理を応用してより良い世界に生きなさいという事であり、「十如是」の教えとは物事の実相から実体へ、実体から影響力へ、影響力から結果への流れを、如是相→如是性→如是体→如是力→如是作→如是因→如是縁→如是果→如是報→如是本末究境等と述べている所のものです。 ■「愛行法」 水のココロ=平等博愛の行為。 (愛) さて、心の質から心の流れにはいります。心の流れを良くするのは、心の広がりを実感する事と、心を常に磨く事によります。命の根源は宇宙の一なるももからやってきたのですから、他者はたまたま違う条件から生まれた自己の現われとなります。ですから、他者(他己)の中に自分の異なる姿を見て行動することです。また「世間は鏡」ですから、人を助け、人を愛する言葉や行いをする事が、まわり回って、良いエネルギーが自分に還流されて、心の質や流れを良好なものとし、生き甲斐や喜びを生みます。人を生かし、自分を生かす生き方です。アッシジの聖フランシスの祈りの中でも「自分が愛されようと思うより、相手を愛しなさい。なぜならば、人は、人に与えるものの中に、自分が受け取るものがあるのですから」とあります。仏教では「四無量心」の教えと云います。即ち、他の自分として現れた人(他己)の幸福を共に喜び(慈)、不幸を共に悲しみ、又励まし(悲)、人から受ける助けや親切を素直に喜び(喜)、他己の自分に対する不愉快な行いや、悪口に対し、こちらからの悪意を手放し、捨て、忘れて行為すること(捨)です。 情熱を持って、自己実現に向かって努力すると言うことです。宇宙から、この地上へ生まれてきた意味を尋ね、発見し、理解し、その与えられた使命を自覚し日々精進し、実現へと歩みつづける事です。仏教では「八正道」の教えです。正しい視野を持ち(正見)、正しい思考で決断し(正思)、正しい言葉で語りかけ(正語)、正しい行いを積み重ね(正業)、正しい職業につき(正命)、正しい努力を怠らず(正勤)、正しい願いを持ち(正念)、正しい安息の時を持つこと(正定)です。しかし、「正しい」という事はどういう事なのでしょう? 私はこの事が中々解りませんでした。そこで、飯島貫実師は言います。「吾よし、人よし」、「今よし、後よし」と…。 さあこれで、「身体の健康」は、血液の質と流れ、「心の健康」は、心の質と心の流れ、これを結ぶ(掛け合わせる)相乗原理の「身心八統道」の全体像がつかめました。この「人生航路の海図」を手に入れましたら、これから、生き 生きと、伸び伸びと、ライフワーク実現に向けて、これらを実行し、楽しく、健康に、この人生を過ごしていきましょう。そして、いつでも、この世界から自由になり、いつでも、新たな世界を再創造して行きましょう! 何故なら、全世界は私達一人一人の内にあり、私達自身は世界の全ての中に宿っているのですから…。 そうです、世界は「色即是空」であり、「空即是色」なのですから…。 (了) 35年以上も前になるでしょうか、私が教育系の美術の大学に通っていた頃、画家ダリに代表される超現実主義(シュールリアリズム)という芸術運動に興味を持っていました。それは人間の内面世界の不思議さをテーマにした芸術表現だったのです。そこでは、私達の心の深い無意識の世界に分け入り、特に、人の心の謎を解く鍵として、夢の観察や分析という方法を重要視していました。 そこで、私も芸術家の卵として自分の心 その後、中学校の美術の教員になり4年ほど経った頃,小説家・司馬遼太郎の「空海の風景」という本を友人から勧められました。そこには、唐の国に渡った若き修行僧・空海が、長安で恵果和尚から密教を学び、日本で真言密教を開いた様子を、若き空海それ自身の眼差しを借りて描写し、その時代や状況を追体験できるような素晴らしい本でした。その恵果和尚から空海が学んだ密教が、インドの当時のタントラヨーガから来たものであり、又、その教理の中心をなすという金剛界と胎蔵界というマンダラの思想的な意味と神秘的な美しさに触れて、その解明にどうしてもインドに行きたいと思うようになっていました。そして、自分自身の教育者としての限界や人生上の行き詰まりから、29歳の折、ついに教職をやめ、寝袋を持って、ヨーガの国インドを目指そうと決心したのです。 そして、全てのものが用意され、彼の国・インドに呼ばれるように、その時が来ました。 羽田空港から飛び立つ時、飛行機に乗ってから読んで欲しいと、弟から1通の詩篇の入った封筒が渡されました。次のページの詩は、そのときの詩篇です。 それは今でも当時の私の気持ちを表わし、勇気づけてくれる作品だと思っています。 旅
の
た
め
に
上
野
芳
久 風にむかって 鳥は飛った 夢よりも高い空 その日は、夏の日の午後 昨夜の夢よりも たしかにつよい不安な風 海を越え,降りたつ遠い土地 そこはどのような土地か わたしは知らない、だが 異国よりも遠い、夢の国にきみは降りる ふりむいてはいけない、いまは その国の風の匂い 土と樹の匂いに 古代の夢を掘り起こす時だ 見たまえ,風がいやにきみをよんでいる きみはきっと気づくはずだ 母の国,奈良の古寺のいらかや風の匂いが その土地の寺院の裏側に隠れていることを 血の歴史につながれていることを わたしはしらない 遠い国を だが 道すがら触れる人の背にはきっと ながい服従の歴史にしばられた かなしみの影が見えるはずだ、つよい顔も……。 <ひとつの来歴を握るため 渡らなければならぬ橋がある 海がある 『類』は寂しい道のりの声の結晶だった> きみは離陸の時、ふとそう想ったはずだ 恐れてはいけない、夜も月も、そして 異国ゆえつたわらぬ言葉も 想うがいい 旅立てぬ弟のひとりが、きみの空を ともに視つめていることを 熱い国の河は どのような色を染めて 暮れていくのか きみは行く,熱い河のほとりへ マンダラの国へ、その事実に ふときみは不思議な空白(おもい)を見るはずだ だがきっと、灼けついた町や河、そして 仏像のいたいけな表情が きみの日々、きみの生涯に 幾度も、そして幾度も蘇り 恐ろしいほどの宿命の時としてあったと 気づくはずだ 迷いが訪れたら想うがいい 死の海をこいで渡った苦行僧の 命と勇気を 祈りをこめて訪ねた国であることを
<思想>がきみをこの土地に呼びよせた きっとそれは信じていい声だ、だから 海を越えても、きみはきみであり得るはずだ はじめての高い空、空からの海 その距離の怖さを わたしは知らない だが きっと、寺院に見る静かな修羅の声を きみはきみに報告するために、旅に出た。 そして想うがいい、ひとり旅にも たくさんの視線が向けられている と。 夏の日の午後 鳥は飛った その行方の空に わたしは手を振る。 [私のヨーガとの出会い(2)] 初めての飛行機、はじめての外国・インドでは、ニューデリーから北へ長距離バスで7時間、そし この最初のインドの旅では、最初に訪れたリシケシでの1週間程の滞在のあと、インド各地も回りたく、まずデリーに戻り、飛行機でカジラホに着き、日中、長時間、憧れの寺院群の壁に、余す所無く彫られている、男女神の交歓像のスケッチを熱中していたせいか、日射病にかかったようで、その後、下痢もひどく、熱に浮かされ、ほとんど食も喉を通らず、アグラ、バラナシと、飛行機に乗り、汽車に乗り、しながら、ブッダ成道の地であるガヤの駅にたどり着きました。駅から予定の時間のバスもなかなか来ないし、来たバスは鈴なりの満員状態で、途中で気持ち悪くなって、降りようとすると、10歳ぐらいの小さな男の子が、私の異変に気がついて、「大丈夫?降りないで頑張って!」と云うように、私に抱きついてくれたのです。私はなぜか安心して身を任せ、気を失っていたようです。終着の停留所で、その子供は、お土産売りの屋台の人に「この人、病気のようだよ、助けてあげて!」というような事を云って立ち去りました。私は、屋台の人に、ぬるいお湯をもらい、日本から持ってきた、みそ汁の粉を溶いて、少し口にしました。そして、灼熱の小道を、バーミヤンの木陰を渡りながら、歩いては休み、立ち止まっては歩くという状態で、ふと、道端で小さな看板を見ました。そこには、「約2500年前、成道する前の青年ブッダが3週間の断食の後、この道を通って菩提樹 そして、私は聞いたのです。「何故人生はこんなに苦しいのですか?」と すると、なんと!答えが返ってくるのです。声としては、聞こえませんが、確かに、言葉が伝わってくるのです。答えは「あたりまえでしょう?」と… 私は当惑し、とても不満で、「何故あたりまえなのですか?」と聞き返しました。すると、また答えが返って来ました。「それは、あなたが、他の人になした事が返ってきたまでのことです。」と… 私は又、当惑し、その答えにとても不満で、「私が、他の人になした事? それは、教育の機会や土地の所有などの平等や平和を実現する為に、学生運動をし、良い社会、良い人を造るために教員になり、幸せにしようと彼女と結婚したのに…。」と云おうとした瞬間、自分の心の奥で、「いや違う!…本当は、子供の頃から、家庭が貧しく、思うように、読みたい本も買えず、剣道の道具や、美術学校の受験の為の研究所にも行けず、富める者と貧しい者のいる世界は不公平だから、その不平等感の怒りと腹いせのエネルギーで学生運動や、社会運動をしていたのだし、そして、職業も、生徒を素晴らしい人に育てる、社会の基本を造ると表面上頑張って言い張っていたのだけれども、本当は、小さい時から、絵が上手いといわれ、他の職業よりも、楽で、安定して、自尊心も満足させられる職業を選んだのであり、実は自分の生きる上の都合で教員になったのが本音だったのでは?」と気が付いたのです。さらに「女性に関しても、その人を、幸せにしようと結婚したのではなく、デモの帰りに、たまたま一緒になったかわいい女性と暮らすようになり、結婚させられるはめになって、その人の幸せなどと本当は考えていなかった。」「全部言い分けばかりで、皆、自分が生き延びる為に、他者を利用し、体のいい云い訳と理屈で他を批判し、利用し、傷つけてきたのだったのでは!」という思いが、胸の奥から湧き上がり、「それは、あなたが、他の人になした事が、返って来たまでのことです。」という言葉が、心に広がり、染み渡り、何か底が割れたように、わかったのです…。「ああ、本当に、何か生き方が、根本的に、何か間違っていたのだ」という思いがこみ上がり、見開いた目から、悲しみでもなく、苦しみでもなく、涙が、心の汗のように、これまでの人生の汗のように流れ、流れ落ちていました。しばらく呆然自失の状態が続き、そして、しばらくして、ふら〜っとその大塔の外に出て、「そうだこれから、日本に帰ったら、全てやりなおそう!初めてこれから会う人、一人一人からやり直そう!」と心に決め歩み始めたのです。これが、私のブッダガヤの触地印の黄金仏と「生死の問答」をするという、体験です。そしてこの体験は、その後、現在に至るまで、ヨーガを学び、画僧として生きる原点になった出来事でした。 帰国後,日本でもヨーガを学びたいと思っていると、丁度、当時住んでいた西武線のひばりが丘という所で、断食道場の先生で沖ヨーガの教室を開いた牧内泰三という方に出会い、その教室の入会の手続きをして間もなく、父親が病院から、胃癌の再発で黄疸が出て、肝臓とすい臓に転移して、余命ひと月程と言われました。そこで牧内先生に相談したところ、ワクチン療法やビワ湿布、そして森下博士の自然療法を助言して下さり、それから父親を自宅で引き受けて家族全員で看病し始めました。すると、それらを実行した所、日一日と病状が回復し、一ヵ月後には痛みが薄れ、血尿も次第に良くなり、声が出るようになり、黄疸も抜けてきて、立てるようになり、歩けるようになりで三ヶ月もすると普通の暮らしが出来るようになってしまったのです。それを牧内先生に報告いたしますと、「その体験を皆に伝えなさい」と言われ、そのひばりが丘の教室を手伝う事になったのです。その感激と感謝の思いで、この目のあたりに体験した奇跡的な食べ物の力や、枇杷の葉の力、日光浴や、温冷浴の力、そして、それらの背後にある自然の力などを感じ、もし神と言われるものがいるのならば、それを見たい!出会いたい!と思い、手元にあった本を参考にして10日間の断食に入りました。当時は、不眠症や金縛り等のような心の不調ばかりでなく、体の面でも、腰や腕に湿疹が出て、又、一日中ゲップと吐き気に悩まされ、痔も患っていて私自身も、実は父親と同じく癌なのではないかと密かに思っていたのです。この断食では多くの事を学びま [私のヨーガとの出会い(4)] その後、父親も元気になったので、 午前中はB.S.ラジネーシ師のユーモアを混じえた、楽しそうな?英語でのお話、午後はヨーガや太極拳や外人による空手のグループ、また併行して、別のホールでは色々な現代的にアレンジされたブリージングとか心理療法、あるいはインテンシブグループとかセンタリングのグループなどが試みられていたようです。又、夕方ともなれば街のあちこちで音楽のライブやダンスパーティーが開かれていました。あたかも町中が古代ギリシャの芸術都市国家になったようでした。丁度私の滞在の期間にラジネーシ師の父親が亡くなって、アシュラムあげての催しにぶつかりました。私はグループリーダーに「セレモニーですか?」と尋ねると「いいえ、セレブレイションです」と答えが返ってきました。千人ちかくの人達に送られ河の岸辺で荼毘にふされ、夜を通して皆で踊り狂いました。ここでは、人生は芸術であり、生も死も祝祭である事を学びました。 その後、日本に帰りひばりが丘の道場を手伝っているころ、いつか読んだ「仏教ヨーガ」の著者でロスアンゼルス在住の飯島貫実先生が日本の伊豆のお寺で合宿をするというので、参加してみる事にしました。第一印象は尼さんの様に清楚な方だなあと思いましたが、お話を始めると、とてもエネルギッシュな方で、一生懸命私達に何かを伝えようとしているお姿が尊いと感じました。私はインドから帰って間もないので、オレンジの服を着ていましたので、貫実先生は「日本山妙法寺の方ですか?」とお尋ねになった事を覚えています。この先生がやがて私が日蓮宗の僧侶になるというきっかけをもたらすとは当時思いもしませんでした。この合宿ではヨーガと共に根本(原始)仏教と法華経を学びました。そこでは、「一根万葉」という言葉が心に染みわたり、その合宿から帰るとそのテーマで記念的な作品「万葉」(100号)が生まれました。その後、毎年、夏、来日される貫実先生を囲んで<法華経道会>の運営を手伝ったり、高尾山で合 宿を企画したりしながら、仏教ヨーガの道を歩み始めたのです。このご縁で、妻・亜土夢とも結婚しやがて身延山の信行道場にも入り日蓮宗の僧侶としての活動も始まりました。この頃貫実先生の甥にあたるダーマヨーガ道会の飯島玄 明師にお世話になり、その包容力のある生き方に感動して「玄春」という僧名をいただきました。この名はその後、雅号としても又、戸籍上の名前ともなったのです。 そして、現在、楽健法の山内宥厳先生や、調布の井上先生のご縁で、アユルベーダ学会の大会で、このYICCのヨーガセラピスト養成講座が企画されている事を知り、ヨーガを愛する木村先生に出会うことで、伝統的なヒマラヤでのヨーギ・ヨーゲシバラナンダ師や、かって、海を渡ってシカゴの宗教者会議に参加し、アメリカにヨーガを伝えたという伝記を読んで感動していたヴィヴェカーナンダ師の教えに改めて触れる事が出来たことを心より感謝しています。 結 論 パタンジャリの「ヨーガ・スートラ」の第一章の冒頭に「ヨーガとは心素の働き(はからいの心)を止滅させることであり、心素の働き(はからいの心)が止滅すれば見るものたる真我は、その本性にとどまる」と述べています。 人間は、意識をもち、考える力を与えられた事によって、高度の文明を築き、生命を脅かす自然や天敵からの危害から自らを守り、飢えや貧困を克服する術を模索し、徐々にそれを実現してきました。しかしその高度の意識の作用によって、個人個人における肉体や生命の持つ自然な力を弱め、精密さを求められたり、競争を強いられたり、複雑な社会的ルールに縛られたり、過去の出来事を悔い、未来を心配する事によって、必要以上の不安や強迫観念などがおこり、心を病む人も増加しています。そこでヨーガは最終的には、この人間の生命活動のパイロット役である心(意識)のコントロール法を伝えているのです。 そこで、ヨーガ・スートラにおいて心のコントロール法として、日々の生活の指針や訓練法として、八支則を説き、禁戒・勧戒・体位法・調息法・制感・凝念・静慮・三昧の段階をもって、日常の中で、様々な出来事や人間関係等から生じる、心の陥り易い、怒りや執着や不安(ストレス等)から一旦離れ、心を青空のようなすがすがしい状態にリセットして、どのような状態にも適応できる生命の自由闊達な力を呼び戻す方法を伝えているのです。 ヨーガはそのように環境に対しての人間の適応力を引き出すことによって、心身の健康管理や治療という医学的分野にとどまらず、その生理的、心理的能力開発法は、宇宙飛行士の訓練や、深海への素潜り、芸術的発想法など様々な分野において、人間の持つ潜在的な力を開発する方法としても応用されることにもなります。 ヨーガはまたYujという語源からいっても分割されたものを結びつけバランスをとる思想であり技法です。この現象世界は天と地、昼と夜、暑い寒い、プラスとマイナス、男と女、吸うと吐く、閉まると広がる、緊張と弛緩、理性と感性などと両極のものが拮抗した働きをもって成立していることを見てきました。自然界においても、人間界においても、人体においても同様です。そこでその中で良いバランスをもって生きることがヨーガの根本思想であり、仏教も、神道も、キリスト教の中にも、中国思想の中にも共通する「命の思想」であることを見て参りました。 またこのヨーガの思想を、日常生活の中で生かすために、飯島貫実師が私達に説きその実行を促した「身心八統道」をここで紹介し、息・食・浴・動・覚・心・愛・修の理解と実行によって、この現代を生きる私達全ての人の体と心の健康を願ってやみません。 そして、現在誰もが一番大切なことは、@身心のバランスをとる事。A自然とのバランスをとる事。B人と人とのバランスをとることにあります。 人々が声高に求める自由や愛や平和も1人一人がこれら三つのバランスを実現する事が根本的な基盤になるのです。 このように、ヨーガは歴史的に、時代に応じて、人間の生命の深い中心にある実在・意識・至福(sat−citta−annand)=「命の実相」を蘇らせる方法と思想を人類に提供してきたのです。 どうぞ、誰もがこのヨーガの思想を取り入れ、心身ともに健康な生活を実現し、美しい自然と共に生活し、平和な社会を築きましょう。 そして、ブッタ晩年の言葉「この世界は素晴らしい。人の心は甘美である。」と云える心境で、毎日を過そうではありませんか。 最後に大聖スワミ・シヴァーナンダ師の「宇宙の祈り」を載せてこの論考を終えることに致します。 「宇宙の祈り」 おお、崇拝する慈悲と愛の神よ! あなたを礼拝し、御足にひれ伏します。 あなたは、あらゆる所におられ、全能であり全知でいらっしゃいます。 あなたは、完全なる実在、意識、至福でいらっしゃいます。 あなたは、全ての命あるものの内在者でいらっしゃいます。 どうか理解をする心、偏りのない見方、調和のとれた心、 信仰、献身、智恵をお授けください。 どうか、誘惑に負けないよう、心を制御できるよう、 内なる魂の力をお授け下さい。 私達を利己主義、色欲、貪欲、憎しみ、怒り、嫉妬から解放してください。 私達の心を神性で満たしてください。 全ての名前あるもの、形あるものの中に、あなたを見られますように。 全ての名前あるもの、形あるものに内在するあなたに仕えられますように。 いつもあなたを忘れませんように。 いつもあなたの栄光をうたうことが出来ますように。 いつもあなたの御名が私達の唇にありますように。 いつまでも私達が、あなたの中に居られますように。 オーン シャーンティ シャーンティ シャーンテヒ 合掌 2002年11月18日 [参考文献] ヨーガと心の科学 スワミ・シヴァナンダ著 東宣出版 ヨーガと命の科学 スワミ・チダナンダ著 東宣出版 ヨーガとからだの科学 スワミ・ヨーガスワルパンダ著 東宣出版 仏教ヨーガ入門 飯島貫実著 山喜房佛書林 ヨーガ革命(肉体篇) 飯島貫実著 青弓社 ヨーガ革命(精神篇) 飯島貫実著 青弓社 ヨーガ根本経典 佐保田鶴治著 平河出版社 ヨーガの宗教理念 佐保田鶴治著 平河出版社 ウパニシャッドからヨーガヘ 佐保田鶴治著 平河出版社 ヨーガのすすめ 沖正弘著 日貿出版社 ギャーナ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著 日本ヴェーダンタ協会ラージャ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著 日本ヴェーダンタ協会カルマ・ヨーガ スワミ・ヴィヴェーカーナンダ著 日本ヴェーダンタ協会 インドの叡智 成瀬貴良著 善本社 マクロビオティック健康法 久司道夫著 日貿出版社 インド・ヨガ教典 シバナンダ・ゴーシュ著 評言社 ヨガ芸術 B・Kアイアンガー著 白揚社 密教ヨーガ 本山 博著 池田書店 血液健康法 岡田一好著 タツの本 樹下の仏陀 真継伸彦著 筑摩書房 ヨガと瞑想 内藤景代著 実業の日本社 新・仏教辞典 中村元監修 誠信書房 インド哲学概説 金岡秀友著 佼成出版社 幸福への12の鍵 スワミ・チダナンダ著 東方出版 木を植えましょう 正木高志著 南方新社 ヨーガ全書 古川咲子著 池田書店 ヨーガ健康法 番場一雄著 日本放送出版協会 呼吸法の極意 成瀬雅春著 出帆新社 クンダリーニ・ヨーガ 成瀬雅春著 出帆新社 魂の科学 スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ著 たま出版
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