ケンさん@シャロム 皆さんへ
安曇野では本当にお世話になりました。
来てよかった、出会えてよかったとココロから思える仲間達でした。
臼井さんとの熱い抱擁も、自分の自信につながりました(笑)
これでもう大丈夫!みたいな感じで。
でも本当、温かくて、心がほぐされたような感じでしたね。
今、自分のホームページでも安曇野での事をupしてます。
是非覗いてみてくださいませませ^^
では、また会える日を楽しみにしています。
あやの
シャロムヒュッテ 臼井さま みなさま
Be Good Cafe安曇野 VOl.12
参加しました、ゆきんこです。
今HPをみていました。
お礼をひとこと言いたくて。メールさせていただきます。
2日間で、思ったこと、考えたこと、感じたこと。
これからの自分、そして周りの人へ繋げていけたらと思います。
近々、福祉の理念にも、人のしあわせは人だけではなく、環境(地球)のしあわせな
くしては得られないという考え方になるようです。
元来、福祉=人のしあわせ というものはすべての人にいえるもの。
パーマカルチャーや自然農法の大地に添うカタチは、
いろんな人や、土や生き物や、みんなに優しいなあと思いました。
そのことが実際に目でみて感じられたこと、嬉しかったです。
私は最近、世界のいろいろ起こっていること、自分のなかのぐるぐるすること、
自分には何ができるのだろうと、「今ここ」を思いあぐねている思いがありました。
けれど、シャロムヒュッテで感じたことが、また一歩前へ自分を動かせるような気が
します。またゆっくりお伺いできたらと思っています。
以下の文は、私の日記から抜粋です。
ありがとうの気持ちをこめて送信します。
5月22日(土)
靄の向こうの山並。広がる草原。
ここは安曇野。
人に優しいだけでなく、地球とともに優しく。=福祉 人のしあわせ。
そんなカケラが「きっとここにもある」とやって来た。
野菜以外の植物(雑草といわれる野草)を排除することなく、耕しもせず。
刈られた雑草の下には、ふかふかの土。気持ちいい♪
野菜もよろこぶというものです。人の身体もよろこぶというものです。
人と大地の共存のひとつのカタチを感じたりして。
玄米ご飯に野草茶。贅沢なプレート。
たくさんの、いろいろな人たちが、いろんな気持ちを持っている。
それでいい、それがいいと笑うオーナーの笑顔。
今の私、これからの私。
どんなふうに向かっても、自分が愉しいと思えるように。
それを確認できたような気がする。
5月23日(日)
御歳70と少しの人生の匠。
いろんな話を聞くのが楽しい。
随分と、便利になったから
自分でその「もの」がどういうふうな物語を持ってこの手にあるのかということを
知らないことが多すぎる。
みな、昔は自分の手で作ったこと、覚えたこと。そうやって生きてきた。
きっと語り継がれもしてきたのだろう。
そういう宝物みたいな知恵や教えを、これから私が、少しでも受け継いでいけたら
と思う。
知ることから始まるんだろう。
今朝、鶏が産んだ卵を優しく両手で抱えながら、
雨上がりの靄かかる山を眺めながら、
「ありがとう」の言葉を胸に。
焼き立てのオーガニックピザ。バジルのお味が絶妙でした♪
食べることは生きること。
いつもの暮らし。食べることに前向きではない私。空腹感のない私。
心が少し泣いている。
手と手をつなぐことも生きること。
炎も一本の木じゃ灯らない。
ひとつよりふたつ。ふたつよりみっつ。
てな。んだんだ(信州ことば 笑)。
臼井さん、みなさまお世話になりました。
またお会いできる日を楽しみに。
/
☆ いいことひとつ流れ星。とんだ。
/
by ゆきんこ
☆
「あっ、ふたつ!」
共働舎(私の職場)HP
http://www.hirakukaicp.or.jp/
臼井さん
フェローのみなさん
先日はとてもいい日をありがとうございました。
Vol12、あいにくの天気でしたが、普段触れることの出来ない昔の知恵を体感することができて、早速ゾーン0に変化が現れています。(笑)
私はオープンマイクの時にも自己紹介しましたが、コーチングを生業にしているコーチです。その根底に流れている人への優しさがPCととても共通するものだと思っています。
私の身近なPC実践は今週末引越しをするのですが、そのベランダでハーブを育てることです。
これからとても楽しみです。私のblog(ブログ)です。こちらに、少しずつですがレポートを載せていきたいと思います。
http://blog.neoteny.com/wyuki/
もしよかったら、みてみてくださいね。
それでは!なべゆき
以下写真文共に高橋さんレポートです。
Be good cafe 安曇野 12
今回迎えに来てくれたのは、ふじむらさんだった。
ワゴンが到着する前に、穂高神社に行ってみたりした。鶏がたくさんうろついていた。
オリエンテーション。
雨が落ちてきて地下で行うことになった。場所が複数あることの、いや、晴天時に使える場所が多いから、その機動効果が大きく見えるのである。
あやさんの進行で「サインゲーム」(勝手に命名)が始まる。近くの人とじゃんけんして勝ったら相手からサインをもらう。じゃんけんの呼吸もひとそれぞれだ。6人分の枠がサインで埋まったら=6回勝てたら座る。
次は、サインをもらった相手を再び探し出しサインに確認の丸をもらってくる。勝負のコツは「手当たり次第」、相手探しのコツは「声を出して呼び出す」。この段階で僕は顔と名前の一致が成立していない。顔の記憶だけで確認できたのは最後にサインしてもらった人だけだ。家に帰ってからサインを見て思い出してみた。前回も一緒だったのに知らなかった人、名前と顔がゴッチャのままの人、帰りのワゴンで一緒だった人、、、。一泊二日のあいだでの認識は、なんとかできているようだ。
次のゲームで、物差が変われば仲間も換わるけどひとり(個人)はひとり(個性)、ということを僕は考えていた。まず生まれ月ごとに分かれてみる。この段階で半分くらいの参加者が場になじんだ様子。こんどは背の高さ順に並んでみる。そして年齢年代ごとのグループ。最後に現住所地域でグループづくり。東北は僕ひとり。関東と中部圏から来ている人が多い。広島の向島から、という人がいた。これだけさまざまなのだから、「配慮」が要るとレクチャーがあった。
「配慮」・・パーマカルチャー倫理の看板言葉である。
区分によって個体の認識がしやすくなる場合がある。
でも、区分が差別にならないために「配慮」は忘れないでほしい。
「人は存在を認められるのが一番うれしい」 臼井氏の弁。
そのままシャロムの実践例ガイドに移行する。
シャロムのパーマカルチャー実践例
まさにパーマカルチャー実践例濃縮100%の時間。パーマカルチャーを捉えきれていなくても、臼井さんの楽しくてためになる話にふれられる最初の時間。
今回のシャロム実践例ガイドは、降り出した雨のため移動していた地下室からスタート。続いて玄関横サンルームの産廃を利用したガラス、天窓やペチカ、温室の機能。雨も小降りになり、森の広場のコンポストトイレから、玄関前のビオトープを中心に複数のパーマカルチャー的様式を組み合わせた庭へ。通路に敷かれたレンガも廃物が利用されている。その先の未完成の建物は臼井さんの手で建設が進む。
「お金を稼がずとも、廃材を利用するなど工夫して自分でやる楽しみがある。」
次のBeGoodCafe安曇野では、この建物の藁壁造りを体験することになる。
「出来上がればここは、えーげ海」と臼井さんはにっこりと参加を呼びかける。そして草とこれまた産廃のドラム缶が屋根に載った食堂まで。
コンポストトイレから取り出すメタンガス
や下水浄化で得られる中水道、食堂屋根などの雨水利用。それらが完璧であれば、ここは自立したエネルギー循環を得るが、公共のインフラとも繋がっている。サブシステムとしての装置群と供給されているという意識。シャロムの例は、パーマカルチャーがすべての暮らしで実践できることを示している。
レポートからもれたメモより。
地下室。
地下は温度変化が少ない。味噌などを貯蔵したりするのに適している。夏は涼むことができる。床は暖房できるようになっている。
サンルーム。
天窓は特殊な鍵棒を使って開閉できる。前回外で説明していたペチカはここにあった。耐火煉瓦を積んだ簡単な薪ストーブが最初の機能部分で、燻製室がふたつ。先に煙が入る温薫室、温薫はジューシーでおいしいらしい。もうひとつは少し離れ時間をかけて燻す冷薫室。(秋田県)山内名物「いぶりがっこ」は温薫になることは、あとで「人間は何を食べてきたか」を見て、判った。やかんを置ける天板もオーブン室もある。余熱でパンを発酵させられるほか、壁に煙道となる隙間が設けてあり、壁面からも熱を暖房として利用している。
コンポストトイレ。
廃棄ドラム缶を利用した雨水タンク。水は有限なのだということが、この場所を利用している森の保育園の子供たちは知ってくれている、という。発酵が始まった固形物はメタンガスの発生装置に入れられ、ガス燃料を取り出す。使用済みの紙は焚き付けに、と言ったところで「その煙で燻製が・・・」という声が飛び交った。そして、この晩大変に意味を増してくる「燃焼を持続する焚き木の配置法」が紹介される。
温室。
これこそがパッシブソーラーの理論を実践したものである。これにキウイの棚を掛け合わせて夏季の日差しを防ぐ。現場で気がつかなかったが、ユーピロンの下に展開した枝は雄株なのかもしれない。
玄関とエントランス。
既存の雨水樽には金魚が泳いでいた。通路に敷いてあるレンガも廃物利用で、昭和電工でアルミを溶解していた炉の残骸なのだそうだ。嫌われ者の廃物にも光を当ててうまく生かす。
ビオトープ。
クラスターをきってやれば汚れは落ちる。水を活性化させればいいのである。合成石鹸も、そうでない石鹸ですら機能は過剰らしい。少し汚れていても死ぬわけじゃない! 排水の行く先が見えていると意識が違ってくる。最終的な処理が自分から見えない場所で行われているから、みんなは洗剤を使うんじゃないの? そう、汚水の出口が自分の視野に向かってこないから、習慣の転換はなかなか難しい。だから短絡的に参加者たちが悪いわけじゃない。
食堂の雨水タンク。
これが2ヶ月前のワークショップで提案されたもののうち実際に設置が進んでいるものだ。設置したドラム缶は20本。これも廃材。ドラム缶と聞くとイメージが悪いが、余計な不安だった。これらは「ナガノトマト」という食品加工メーカーから出た廃材で、ヨーロッパからトマトジュースを輸送する際の容器で、中身を抜いたあとは廃棄されるのだという。ナガノトマトの野菜ジュースを飲むようになって間もない。飲んだ後のパックがどうの、という以前に廃棄物が生まれている事実。そしてそこで廃物が生まれているのだから使う。最終消費者がドラム缶の再利用を目の当たりにする。こんな繋がりがあるとは驚く。実は処理の入口も我々には見えていないことが多い。供給が需要を開拓している面もある。資材は地球規模で移動する。容器は使途終了の地でゴミとなる。その延命処置。中身は僕が飲んでいる。トマトは植えていない。うーん。ゴミを生む加担者になっているぞ。いつから・何のきっかけでこうなってきたのだったか? 果たしてもとに戻れるのか?
出口が見えないことと同様、ここは「60点の完成度」が発揮される事柄なのかもしれない。ノイローゼになったら喜べない。
「とにかく廃材はタダである。さらに自分でつくればなにも費用がかからない。」
余計なゴミを生む時間もなくなることだろう。
パーマカルチャー基礎講座
今回は玄関のオープンデッキで開講した。この時点でそれぞれがパーマカルチャーをどのように捉えているかを意見しあう。わたなべさんのレポートによれば、ブレインストーミングという形式らしい。僕がついたテーブルで出ていた意見は、
農業のことだけではないらしい・・・、
身の回りの範囲で完結させることらしい・・・、
食べ物のことだけじゃないらしい、
ひとりじゃできない!?
というように、ある限定した分野の中で完結されるイメージを持って捉えてきたことが伺われた。
みんな繋がっているのはわかったけれどまだ理屈っぽい、イメージがわかない、というように、ここに来て始めて触れたようなひとは、何者とも捉えられないようなものと感じているようだ。この段階で全員が共感できたイメージとは、
「単体ではなくどこかの何かと繋がりが必ずある、お互いが作用しあうものであるなにか」という捉え様だった。
参加者のほとんどが都市生活者であり、憧れの対象としてのキーワードにしかなっていない、という危惧も聞かれた。(この意見は都市生活者自身から) この発言で閃くのは、日常という場面では、キーワードを生む必要性がないのではないか、ということ。理由は今すぐ集約できないが。そこに誰か、おそらくは「非日常側」のひとが説明の端緒となるキーワードを持ち込んでくる場合がある。日常側の人は説明の必要もなくキーワードなど持たないが、キーワードをもたらされることで認識できるようになる。これは言葉の生成においては互助関係の始点と見ていいだろう。ちょうど、パーマカルチャーという外国のキーワードによって、日本に内在していたポテンシャルの高さを再認識していくように。これって「キーワード言語互助効果」?。
日本語に訳されるとき、難しい言葉に置き換えられてしまいとっつきにくい、という声もあった。僕は逆でカタカナ語が出てくるとイメージしにくくなってしまう。そもそも「ブレインストーミング」ってなんだ? 「ポテンシャル」ってどういうこと? 日本語じゃ表すのに不足するのだろうか。普段着の言語は昭和終期秋田平鹿語である。僕は平成初期日本標準語にようやく慣れた段階だと思っている。カタカナ語と接続詞だけの文を見聞きするとクラクラすることがある。単なる知識不足だが。 → (6月末の新聞で国立国語研究所が外来語の言い換え案を考え続けていることを知った。)
以前コンピュータネットワークの設定を手伝いをしたときの話がある。「学校」のように誰もが関わっている場面を例にして専門用語を置き換えて、行う作業が全体工程のどの位置にあってどんな意味のものなのかを説明してくれた業者がいた。
新しい文化が興り、それを伝えようとした人の母言語が、もっともうまく説明された言葉であることは確かなことである。文字だけで伝えていくと内容の経年変化が生じていくことにも気づかされる。専門用語的日本語に訳すのも同じことであれば、併記や併述がもっとも望ましい。これで曲解も少なく多くの人に伝われば、もって「或いは話法(聴法)」は成立だ。
「最終的にパーマカルチャーという言葉を持ち出さなくとも何を指し伝えようとしているのかが捉えられるようになればいい。」 臼井氏の弁。
言葉は伝えるための能力のひとつである。
言葉は、伝わるように変幻を意識しながら使う(言う、聞く)ものなのかもしれない。
農業実習
播種後に草が育った状態になっていた。種や苗の周囲は草がなくなっているが、この部分の直射光を防ぐためにも刈り取った草をかぶせる。作物がある場所は薄くかぶせるのだ。蒸散防止と日焼け防止になる。
完全に自然に任せれば、総ては森になるベクトルへ向かう。先日、里山の、防風林の、すべての松が立ち枯れた由利地方の沿岸を訪れた。確かに力強く森になろうと、勝手に動き出している様子だった。枯れた松に蔦が這い上がり、日陰に抑えられていた広葉樹は一斉に萌えていた。
草本作物の畑地として利用するためには、そこへ必要最低限の手入れをする。森になろうとする力を抑えてやるのだ。
野菜の種は小さいものが多い。播種後に覆土するときは三つの方法がある。
@
鎌で播種面の土に切れ込みを入れたときの削れ土を覆土とする方法、
A
播種面の脇を掘った下部の土を撒く方法、
B
播種面を靴底でズッて覆土する方法。
どれかの方法の最後に剥いだ草をかぶせる。
キーホールガーデンは通路との接縁部の生態系が多様な傾向にある。蕨の地下茎も接縁部で旺盛に分化する、ということを連想した。「蕨原則」を閃く。(いや、きっと先進用語があるはずだけれど。)
夕方フリータイム
参加者の半分程度が温泉行きかな、と思いきや大半が出かけていった。前回温泉を経験していたこともあって思いとどまる。オープンデッキに腰掛けて夕食までの間、のんびり語らいの時間。小谷の桃源郷に行ったときの臼井さんとあやさんの話。全体を観る視点を持つこととバランスを意識することを腑におとしあう森谷さんたち。小さなコミュニケイトは濃密な時間。過去に授かった知識を知恵に変換していく過程の復習時間。
夕食・オープンマイク
前回よりも緊張しなかったとはいえ、自分がどう発言したかをはっきり覚えていない。
今回はテーブルの図を書いて自己紹介のたびに名前と人を覚えるためのヒントを書き込んでみた。BeGoodCafeの運営に携わっている人が多くいることがわかる。結果、全員は捉えきれなかったけれど、パーマカルチャーの視点に共感してきたという何人かに焦点をあてた。僕の参加理由は「模倣するにも体験から」というものだが、パーマカルチャー的視点はそれまで空想してきたものと最も近い体系論であり、これを軸にした動きが発生していたことへの興奮が出発点である。僕と似たような理由で参加したと聞けば、まず親近感を持つのはそうした人たちである。実は全員同じ出発点なのだけれど、僕はまだ興奮物質が多い。見ること聞くことが新鮮なのだ。 「PEA」につづく・・・かも。
四井講座・土のきほん
四井さんの講座は、はじめちょっとした違和感を覚える。
「肥料は必要な場合がある。」
半日かけて自然から学ぶ知恵がいかにすばらしいかという認識に水を差すように聞こえるのである。しかし最後まで聞くと、ものごとを肯定的に全方向から捉えるコツがなんとなく見えてくる。大小にかかわらず、問題とはこうした捉え方を忘れるから起こりやすくなるのではと思う。捉えたうえで自分に最も適した位置を得て行動に図るという過程を、おぼろげにでも想像できるから、最後まで聞いていて納得するのである。自分が農業に関わってきているので、放任型の農法を即座に受け入れられない思いがベースになっているから納得しやすいということもあるかもしれない。
「さまざまな捉え方を提示するから、参加者それぞれがいいと思うものを持ち帰ってほしい。」シキタさんが毎回最初の挨拶で言うことのひとつがここではっきりと認識できる。
確かに無農薬・無化成施肥の食物、葛藤すらない平穏な世界は絶対的な安心感があるかもしれない。かもしれない。この世界を成立させるとなると、全員が完全無欲な世界でなくてはならないようなイメージが、僕にはある。欲が無くならない現状も人間界においては自然な成り行きなのではないだろうか。知り合ったり関わったりした別の曼荼羅を、自分曼荼羅の中ではどこに配しておくか。まずはそういうことで、取り込む。捉え込む。
ここでひとつ、僕に知識の相乗効果をもたらした話があった。
森の遷移のサイクルは約800年、という四井さんの話だ。知恵友達から「魂の遷移サイクルが約800年」と聞いたばかりである。出典はシュタイナーの本だが、次の変遷は西暦で2400年ごろと述べているらしい。すると以前の変遷期は1600年頃、800年頃、0年頃・・・となっていく。史実を重ねると何が見えてくるのだろうか。僕のイメージでは、800年から1600年までの日本は武士力統治に魂が動いた800年に見えるのだが。手付かずの森はそれと同じサイクルを持つとすれば、森は魂の動きを記憶しているのだろうか。 → そういえば5月16日の「NHKアーカイブス」で見た東京大学名誉教授・高橋延清さんもそれに近いことを言っていたような・・?? → さらに最近、地元の知恵仲間から「13月暦」の情報が。「グレゴリオ暦1519年から468年間は地獄の周期」というマヤ暦。ちなみに天国の周期は676年間。ちょっと違う。
「シュタイナー」。確か前回のシャロムで認識し始めた言葉だ。僕の知恵友達は別の切り口から「シュタイナー」に達している。気をつけていると、確かに何人かの口から「シュタイナー」という言葉が聞かれた。 → 後日その友人がシュタイナー絡みでネット検索をしていたら「シャロム」のページがトップで出てきたそうな。
ファイヤーセッション
「アルコールワークショップ」とか、昼間話せない内容が闇と炎の効果で出やすくなるため、対語としての「BE
○○○ CAFE」など、さまざまなネーミングが検討された。
これを楽しみにしてきた、たにむらさん。オープンマイクのときに駆けつけた、まつきさん。前回の焚き火仲間がいることでウキウキ感が前回より遥かに高かった。
竹篭に酒とグラスを入れて外に出ると、森谷さん、あやさん、臼井さんがすでに火を囲んでいた。今回も濃い時間だった。
「燃焼を持続する焚き木の配置法」が実践されていた。2本の薪を「=」ではなく、「――」と並べて棒の接点に火をつけるのである。もっとも焚き木が長持ちする。
リンゴ園地での経験は、いかに短時間で半ナマ木を焼却する火力を得るか、という方向だったし、風呂釜や薪ストーブでの経験は一方向への空気の流れを調節することだった。切り口が着火しやすいのはわかっていたけれども、並べ方が新鮮だった。3本、4本と増やせばべき乗的に火は大きくなる。
これを恋愛関係に例えるから話に深みが増す。それをきっかけにそれぞれがいろんな「例え」をそれぞれが創造する。「炎は大きすぎないほうが長持ちする。」(ということは・・・)などと。僕が悩みを持ったときによくリンゴ山でやることに似ている。しばらく比喩表現のまま会話が続いた。発言しているほうは直接表現よりも慎重になるために深みが増し、聞いているほうは自身の体験と静かに重ねていける。(これこそ「或いは話法(聴法)」!)
頭を使うためか、アルコールに負かされることもない。
人の話を聞くときはメモをとらないで聞くことに集中する、集中することで相手も引き立ってくる、という知恵。「瓦理論」、競争社会と共存社会の比喩表現。
「瓦は積むものではなく少しずつ重ねあって覆うものだ。」 すべて臼井氏の弁。
少し人数が増えた。たにむらさんのオープンマイクに効果があったと思う。「これくらいがちょうどいい」といったのは12人ほどの輪。「もっと増えるようだったらもうひとつ輪を作りましょう」。軽く話が揺れ戻る。2本が3本になると、という比喩会話をしていた頃だ。多夫多妻という未来像の話にもなっていた。
多夫多妻にたどり着く道のりはどんなだろう。まず自己と他者の違いに目が向く。自己主張して悩む。あるとき独占欲が何らかの作用を起こしていると知る。モノと同じように精神性も共有していけるようになれば、多夫多妻は成立する。相手を知り配慮する。ここで思い出していたのが脳内物質のことだった。(「PEA」フェニル・エチル・アミンという脳内ホルモン、帰宅後の確認「女の脳と男の脳」より)
人を好きになるとこのホルモンの濃度が一気に上がるのだという。人間のあらゆるホルモンは同じ状態でいることができず、影響を受ける受容体もホルモンの状態に合わせて変化する。脳はそもそも同じ刺激にあきるようにできている。さらに男性には多くの子孫を残すための命令が組み込まれているから、PEAの枯渇は女性よりも強く、別れるほうへなびいていくらしい。僕が注目していたのは、「PEAの作用がなくなるまでに、お互いのいいところを見出すか、お互いが補完しあうような関係を作り出すかをしておくべき」と書かれた部分だったが、さあ、しかし、違和感を唱えずにいられない彼女が話し始めた。
そして「生きててよかった。」に行き着いた。そう語った彼女を本当によかったと思う。
ふじむらさんがイマジンと愛のうたを歌った。「あいをー あいをー うたぁおお」
調和。
知を深める。
たましいの話。
絶対の世界は光の世界。
違う相手が用意されたこの陰陽世界。
除くことのできない我はカミのあいだにあり、何で我知る、それ「カガミ」という。
(シャロム「心にしみることば」も同時に参照)
時折雨脚も強まる。
カミも鳴る。
闇と炎。
傘で囲む焚き火。
廻る煙。
僕が本館のトイレに行ったとき、食堂でも輪ができていた。「焚き火のほうはどう?」と聞かれて「盛り上がってるよ」と答えた。そのせいかもしれない。戻って間もなくさらに人がやってきた。
調和。
雨粒は名を持たないが、流れができ川となり名を持ち個性となり、やがてひとつになる。海。そしてまた空に舞い名もなき雨となる。
僕たちもひとときの闇に帰る。
調和。
→ このセッションで一瞬たしなめられたのは、何でもかんでも正確を期しなくてもいいんじゃないの? というメッセージだったと感じている。
モーニンググリーンウォークと農作業
雨上がりの朝。起きたての眠い躰を整え、森に耳を澄ましてみる。雉の鳴き声をキャッチした人もいた。初夏の鳥の声は多様ににぎわっている。僕はモーターのような音も聞こえると言ってしまった。朝だから耳に入った音だけれども、それは森の音ではない。
まだ寝ているな、と朝から我を省みる。
移動のことしか意識しなかったら、ほんの1分足らずの距離。なのに、観察を意識して歩くと気がつくことがたくさんある。森の生き物たちの知恵、その仕組みの解は初めから知らなくてもよい。自分なりの解釈で、じっくり観ることで発見を楽しむ、朝の散歩の時間。
観察することを意識した後は、パーマカルチャー畑へ。今回はキーホールカーデンとマンダラカーデンのお手入れ。ウッドチップを敷き足したり、草を刈ったりの軽作業。草刈作業でいろいろな野菜との区別を同時に覚えられるのはパーマカルチャー畑ならでは!?
「草はむしらず、刈ることで根を残すと地下構造を保つことにもなる。」
富山で有機栽培を実践する方が解説してくれた。そして大根の鞘(さや)は今が食べ時、と、プチプチ摘んで試食のおまけもついた。大根の鞘、はじめて食べた。
「その生命が全うするまで、植物を自分で育ててみよう!」 臼井氏の弁。
自分流で楽しもう。
ゆとりも楽しもう。
畑でするそれぞれの知恵交換。とてもよい時間。
そして朝ごはんに向かう。
おやきの中村講座
快活なおばあちゃんはやっぱり楽しい。
「そんなもんだジ。」お年寄りの名ぜりふだと思う。
生地は触感を頼りにこねながら、昔の経験話をしていく。女性脳の本領発揮、パーマカルチャー的に言えば、時間の複層活用。こちらも入力器官をフル活用。
目で生地を見て耳で別の話を聞く。
練りあがりは「そんなもんだジ。」
切干大根を味付けする味噌の加減も「そんなもんだジ。」
「手塩でいただく」とは、皿を必要としないこと。秋田方言にはなかったか調べてみよう。 → (このあいだ「べゃあなく゜り」という、おそらく大正期の秋田平鹿語の話題があったばかりだった。これは「果実などを振り落とす用の棒」のことだという。ものすごく用途が限定された名詞。万能道具が一般的でない時代に、一言で伝え合っていた、言葉のおもしろみ。ちなみに秋田方言は現代では差別的語になるなど乱暴な言語も多い。「手塩で食べる」はなかなか見当たらない。)
おやきは灰まぶしが最もおいしいという。もともと広葉樹を薪として利用していたことから思えば、広葉樹の灰は脳にいいらしい。「灰まぶしおやきを食べていた人は頭のいい人が多かったヨー、」と。おやきの灰まぶしの場合、松葉ゴミでオキ火を起こすと香りもいいという。焚き木は燃焼中に木の成分が抜ける。オキ火になって純粋な「火力」となる。「火力」が強くあっという間におやきの表面が乾燥した。
森の保育では背を丸めた子供がいないこと、いつもいろんな方向へアンテナを張ることが身についているからだと。
生きていくには安心が大事。
山々を縦走していた若い頃の話。
有機農に取り組むきっかけの話。
真の昔語りだから心地よく響いてくる。
中澤さんのほうでも、うとうとしながら聞く人があったのはそのためだ。(僕は「地球交響曲」という映画に誘われて行ったとき半分以上寝ていたことがある。「気持ちいいからだよ。」と言われて腑に落ちたことがあった。ヘビメタが睡眠を誘っていた時期は何を物語っている?)
できたおいしい野菜が、宅配便という新しいシステムで、翌日には福井の親族の元に届くことは安いものだ。騒がしいほど喜んでくれるその声がうれしいと語ってくれた。
焼きあがったおやきをほおばっていると谷崎さんがお茶を運んでくれた。先に他の人へ、と思い「大丈夫です」と受け取らなかったが、「そうじゃないんだよなぁ」とつぶやいている。遠慮も否定のうちかもしれない。
刃砥ぎの中澤講座
中学卒業と同時に家業を継いだそうだ。うちの親父も高校卒業と同時に家業を継いでいる。「時代に負けた」という言葉で説明されることが多かった。親父の概視観と似ている。負かされた「時代」って何ものなんだろうか。学歴経済社会だろうか。
市販のステンレスなどの包丁はプレスによって生産されているので、すぐに切れなくなるそうだ。鋼は打ち込むことによって硬さが増しているので刃もちする。地鋼を鋼で挟んだ3枚重ね鋼は夫婦のようだと例えていた。両側の鋼(夫)がしっかりと地鋼(妻)を守っているから末永く使えると。
ところでここでも出てきた、「刃が熟したら」「刃が慣れたら」という表現。ナガサ(阿仁マタギが使う山行用の刃物)を買ったときも「刃が慣れるまではあまり太い枝を切ったりしないでね。」と言われた。「刃『が』」と言うのでどんな感触が「熟した」り「慣れた」状態への変換点なのか、質問してみた。「要するに「慣れたか」だ」、と答えが返ってきた。どうやら、刃「が」何かに慣れるのではなく、刃「に」自分が慣れたときを指すようである。つまりは使い手側の変化なのである。 → 入魂という言葉があるが、その科学的側面の解明に期待したい。
ランチ
講師である、中村さんのピザ焼きを仰せつかる。
ところが、手つきは初体験に返っていた。
でも、まんざらではないように焼けた。
ほっとした。
そして自分たちのを焼いた。
ピザはふたりで半分ずつ、食べた。
観察と考察
帰ってから出来そうなパーマカルチャー的行動をイメージする。
僕のテーブルで印象強かったのは、家族から伝えていこうという声だった。家族だけではないかもしれない。いま一番身近な人、そういうイメージの言葉。
異世代と接触を持つことも意識的にしなければならないように感じた。果たして意識せずに多くの異世代と接触することが望ましいのだが。こちらから働きかける「キーワード言語互助」も効果に期待が持てるかもしれない。
エンディング
「臼井氏の弁」は次回もきっとたくさん開くだろう。
そうしてみんなも潤っていく。そうしてみんなを潤していく。雨水の弁、開けば大地が潤う。
関連本とその後の連鎖本
こんなに違う!女の脳と男の脳 米山公啓、中経出版、2004
ブッタとシッタカブッタ@・A・B
小泉吉宏、メディアファクトリー、2003
レポートを読んで
ゆきんこさん
「てな、んだんだ」
これに微笑まずにはいられません。ずいぶん秋田方言とも印象の違う松本方言ですが、このフレーズはストレートに秋田方言とも通ずるからです。
花木さん
石釜300度は知りませんでした。もっぱら「食べられるように焼く!」だけに集中しておりますので・・・
渡邊さん
“パーマカルチャーにとって農業は一部分にすぎません。「暮らし全体を想像するデザイン手法」なのです。”
前回このことを聞いて衝撃でした。農家は専業がえらい、と思ってきたからです。いや違うかもしれない、と考えるようになって以後、「百姓」という言葉の奥深さを再度噛みしめています。うちの周囲はみな「兼業」農家です。それこそ、百姓の今的姿ではないのかと、思ったりします。専業を維持するために見栄を張りすぎたと反省します。我が家は専業で食べていけるから出稼ぎなんかに行くこともない、と言っていた父。それはそれで誇らしいことですが、僕もそうであらねばと思い込みすぎていたような気もします。そんな葛藤の末の「パーマカルチャー」です。おっしゃるようにこれは知恵の確認であり、この上に知識がちりばめられていくはずです。ですから僕はなるべく行動に移るべきなのですが、まだ知恵の知識ばかり追い求めているようです。これは僕の特徴であり、匙加減をうまくできるようになれたらいいなぁ、と思うこの頃です。シャロムページの「心にしみることば」を5月の中ごろに初めて読んで思いました。
“できれば、このシャロム・ヒュッテのおいしいオーガニックフードの料理教室を開催してほしいです。料理好き、食べるの飲むの大好き人間としては、切望しています!”
僕も興味あります。そばソーセージとか。
村松さん
『ゆるい』というキーワード、耳に残りましたね。「スロー」なになに、を訳するとこうなるのかもしれません。「おそい」でもない「だるい」でもない。「ゆるいたべもの」「ゆるいじかん」「ゆるいくらし」「ゆるきもの」「ゆるいあい」・・・完璧感はないけれど余裕と余韻を残り香にする「ゆるいことば」たち。「いいかげん」に似て再評価が待たれる普段語かもしれません。
プレス製品と鍛錬された製品の違い。中澤さんの講義でようやく腑に落ちました。
以前、ある国からやってきたサーカス団の公演設営と撤去のバイトをしたときのこと。このときのバイトは、撤去が徹夜になってしまって余計に記憶が鮮明なのですが、空中ブランコなどの演技の安全装置であるはずの転落ネットを支えるフックに異変が起こりました。フックにネットのロープをかけて「もっとピンと張ってー」という号令で何人かの男たちで引っ張ったら、巨大なフックの鈎が伸びきってはずれたのです。コメディのように、引っ張っていた男たちは後ろに崩れたのでした。誰かが言いました。「焼き入ってねぇーんじゃねーのかっ」。このことと同じです。あの時のフックはたぶんプレス製品なのです!
製品の安全性にも関わる話だったと思います。僕は能率の追及がすべて良くないとは考えませんが、こういったバランスのとらされ方をしているんだなぁ、と思います。
あやのさん
「マクロビオティック」がよくわからなかったところに簡潔な説明があり、ありがたいです。
安曇野に行く前の日に聞いた話です。僕の旅友達が、昨年都区内に転勤、引越しました。水道水が飲めず、2リットル700円ほどの水を飲んで暮らしているそうです。朝は必ずその水を飲み、都会のストレスを軽減するのだそうです。秋田の頃は「ジャンクフードの○○さん」といわれるほど米を食べない人でしたが、東京に転勤してから昼ごはんもキチンと摂っているようです。水のせいかと思うと不思議です。よいと思えば薬になり、悪いと感ずれば毒になる、ヒトが摂取可能な「食物」にはそんなことが言えるのかな、と思います。(摂取不可能なものはもちろん毒です。) よいと思う状態の食事、即ち食事の時に、おいしい、楽しい、と感じることも作用するのではないでしょうか。そんなことを考えました。
→ 水に「I LOVE YOU」など、うれしくなる文字を読ませると分子が整列していい水になるそうです。シャロムの後、高野に行ったのですが、水面に自分の姿が映らないと3年以内に死ぬといわれる姿見の井戸というものがあります。僕は怖くてとても見る気に慣れません。水の粒子が文字に反応するとなると、こうした現象も科学的にありうることになります。
沢山のレポート有り難うございました。
今回も充実したページになりました。 |