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シャロムと出会うまで都会育ちの私は「農業の営み」というものとはまったく無縁にこの世界に存在していたし、ましては「自然農」というコトバすら知らずに生きてきた。
けれども、5月にシャロム畑のことを知り、そして「自然農」の講座に参加してからは、雑草だらけの土地を見ると、もう無性に「のこぎり鎌」を持って草を刈り、種を蒔きたい…そんな衝動にかられている自分がいる。シャロムの雑草と呼ばれている草花(本当は雑草〞っていう草なんてないのですが)と一緒に野菜の芽が顔をのぞかせている風景を、自宅のマンションのベランダでぼんやりと夜景を見ながらふと思い出すだけで、なんだか胸の辺りがざわざわしてくる。
自分とまさか「自然農」がこんなにリンクするなんて不可思議としかいいようがない。いったい自分に何が起きているのか…予期せぬ自分に出会った軽い戸惑いとそんな自分をどこかおもしろがっている自分がいて、今私は初めて「畑というもの」に出会ったような気がする。
これまでもちろん私は多くの整然と並び、耕された田んぼや畑の姿をいくつも目にしてきた。それがいわゆる「田んぼ」であり「畑」であり、「正しい田舎の風景」のように思っていた。一方、シャロムの「自然農」の畑はそれとは異なる情景だ。お行儀のいい畑に囲まれてそれはあるのだが、一見すると単なる「雑草だらけのいいかげんな畑」にしか見えない。けれども、シャロムの臼井さんや講師の舘野さんのお話を聞くと、同じ畑なのにそれはこれまでとはまったく異なる表情を現し始める。そこで私が出会った畑は「(雑草といういわば)敵〞や他者〞を排除するのではなく、それらと共生〞し、調和〞しながらそれぞれのいのち〞が緩やかに連関しながら存在し合っている」そんな畑であった。
ここの畑にすべてのいのち〞のあり様のヒミツが隠されていたなんて! 自分のまさに「足元」にその「答え」はあったんだ!そんな気がした。
実はこの数年間、私はずっと問い続けていたことがあった。それは今の私の職業と密接に絡んでいるのだけれど。
私はいわゆる「こころの専門家」と呼ばれる仕事をしていて、日常ではストレスなどが原因で心身に不調をきたした方々のサポートをしている。そしてそのような方々との数多くの出会いを通して感じるようになったのが、単にその人の「こころ根」が弱くて、そうした病になられた、というのではなく、近代社会が効率を重視しそれをあまりにも優先させるようになった結果、いのち〞が本来もっていたリズムを失ってそのゆがみ〞がこころの病〞として現れているのではないかということだった。
「こころ根」が弱いのではなく、こころやいのちを育んでいく土壌そのもの、環境そのものがもはやいのち〞にとって生きづらく窮屈なものになっているのではないか、そんな思いがどんどん膨らんでいった。
そんな時にシャロムの畑と自然農に出会ったのだった。シャロムの土は、本当に黒々していて、やわらかく種たちにとってはふかふかのお布団みたいだった。そこで種たちは毎晩どんな夢をみているのだろう?
私ができることは種を蒔いて、あとはただそれを見守るだけ。
けれどもできるならその土はいのち〞を活かすことができるものであってほしい。型にはまった均一なものしか生きられないのではなくもっと自由ないのち〞のゆらぎやうごめきが生じるものであってほしい。
そんな意識が生まれてきた。
人間も、虫も、草もどのいのちも平等にこの世界には存在している。
私の身体は、皮膚という外壁によって一見他とは区切られているようだが、別の次元からみると、たったひとつの〈個〉として突出して存在しているのではなく、網の目のように張り巡らされたさまざまないのちの中で浮かび上がっている〈何か〉なのかもしれないと思った。
自然農の提唱者川口さんは「問いを生きる生き方」から「答えを生きる生き方」について語られている。
いみじくも今回、舘野さんは「〈自然農〉は〈自然農法〉ではありません」とおっしゃっていたが、「自然農」は私にとって単なる「農法の一技法」ではく、人間存在、ひいては〈いのちそのもの〉のあり様にまで迫ってくる確かな〈存在知〉である。
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