自然農との出会い
私が「自然農」を初めて知ったのは、数年前にたまたまあるテレビ番組で、奈良の川口由一さんの米作りが紹介されているのを見たときである。農業をしたいと思ってはいたけれど、怠け者で面倒なことが嫌いな私には、耕さない、草を取らない(実際は草刈りの日々なのだが)ですむ農法なんて、夢のような農法に思えた。
私は、20代の半ばに大阪から長野に移り住み、何年か経った頃から、漠然と農業をしたいと思うようになった。きっかけのひとつは、アジアへ旅行に行ったことだと思う。いわゆる「発展途上国」と呼ばれる国に住む、私たちより貧しいはずの人々の暮らしは、物がなくてもゆったりとして豊かだった。
そのことに私はカルチャーショックを受けた。
また、それまで知らなかった「南北問題」や「第三世界」という言葉を知るようになり、日本国内の食糧自給率の低さと、第三世界の貧困とが密接に関係していることを知った。
援助というけれど、援助されているのは私たちの側であり、私たちが自立することなしに、南北問題の解決はないと思った。これ以上、南の国の人たちの足を踏み続けるのはいやだと思った。
それにはまず、せめて自分で食べるものは自分で作らなくては、と思った。
デスクワークよりも、身体を動かす仕事がしたかったこと、何かものを作り出すような仕事をしたかったこと、そして、一日中建物の中に居て今日の天気がどんなだったかさえ知らずに過ごすような毎日はいやだと思っていたことなど、農業をしようと思った理由は他にもたくさんある。
とにかく私は、農業、それも自然を汚す農薬や化学肥料は使わない農業をしたいと思っていた。自然農のことをテレビで見たのは、ちょうどそんな頃だった。
知らなかった新しい世界
それから半年くらい経って、たまたま、隣町で川口由一さんを招いての自然農の学びの会が年4回行なわれていることを知った私は、それに参加して学び、近所に畑を借りて、何もわからないまま手探りで野菜作りを始めた。
長野や三重で行なわれた新規就農準備校にも行って少しは農業のことは学んだが、最初のうちは本当にわからないことだらけで、何をいつ、どのように蒔けばいいのか、支柱はどのように立てるのか、いつ収穫すればいいのかさえわからなかった。
金時豆を蒔いたところにせっせと頑張って立派な支柱を組んだのに、一向につるが巻かない、実は金時豆はつるが巻かないタイプの豆だった、という笑えるような失敗もたくさんした。野菜作りの本を畑で広げながらの農作業だった。
それでも、初めて借りた畑で、草をかき分けて種を蒔いただけで、キュウリや大豆が立派に育っていく姿を見て、自然農は簡単! とも思った。
蒔いた種から芽が出ただけで感動し、それが私の知らないうちにひとりでに育って、みるみる成長していき、たったひとつぶの小さな種からたくさんの実を結ぶことに、スイカがスイカとなる不思議さに、ただひたすら感動した。採れた作物はとてもおいしく、いのちがぎゅうっと詰まっている感じがした。
今まで知らなかった新しい世界がそこにはあった。人間の力の及ばないところに、何か大きな力が働いていることを感じた。
これが、神さまというものなのかなと思った。
実際、自然農は簡単である。私のように、農業の知識がまったくなくても、耕さなくても、肥料など施さなくても、野菜は立派に育つのである。
また、必要な道具は、草を刈るカマと、鍬とスコップくらいで、機械も、お金も何もなくても、種とそれを蒔く場所さえあれば、今すぐに始められるのだ。しかも、その土地は、いわゆる「荒れた農地」のように、長い間放置され、草ぼうぼうであればあるほど理想的なのである。というのも、そういう土地には、草や虫、小動物、微生物など、たくさんのいのちが満ちあふれているからだ。
私の初めて借りた畑も、そのような土地だった。自然農は簡単、ということを体験できたから、そういう土地で始められたことはラッキーなことだったと思う。
化学肥料や農薬で汚染された土地を借りてやる場合は、その土地が自然の働きで浄化され、作物がちゃんと健康に育つようになるまで、何年かかかるという。その何年かが待てずに、自然農では作物ができないと、あきらめてしまう人も多いからだ。
私が今借りている畑は、4年目になる。3年目から畑全体の調和がとても取れてきた感じがする。
生える草がやさしいものに変わってきたし、カマキリやテントウムシなど初めはいなかった虫たちの姿も多く見かけるようになった。
そして、畑に立っているととても心地よく、作物もよくできるようになってきた。私の見る限り、野菜たちは草に囲まれてとても気持ちよさそうに見えるし、実際すくすくとよく育っている。私が心地いいということは、作物にとっても心地いいということなのだろうと勝手に思っている。
自然農は楽で簡単そうだから、と思って始めたが、実際は畝作りや種蒔き、草刈りなど、機械は使わずすべて手作業なので、体力は結構必要だ。
作業の半分は主に草刈りに費やされる。
特に草の生育が旺盛な夏は、草刈りばかりの毎日だ。(自然農といえども、まったく自然任せの放任では、野生の、生命力の強い雑草に負けてしまい目的の作物が育たないので、作物が負けない程度に草は取る、もしくは刈る。
そして、刈った草は外へ持ち出さずその足元に敷いておく。
刈って敷かれた草は、自然のマルチとなって作物の足元を乾燥から守り、朽ちたあとは、そのまま次のいのちの糧となる。
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元来怠け者の私だが、この草刈りが案外楽しいのである。
余計なことは何も考えずにただ黙々と目の前の草を刈り続ける。
後ろを振り返ればそこには自分のやった成果が見える。
そしてこの瞑想のような作業のおかげで、終わった後は頭の中が空っぽになり、達成感と心地よい疲労感が体を包むのだ。
私も自然の中の一部
私が自然農を好きなのは、それが身の丈にあった栽培の仕方だからだと思う。
自然の営みに沿ったこのやり方は、余計なエネルギーや機械を使わず、自然の働きと、そして私というひとりの人間の能力が最大に発揮される。また、手作業でやる仕事というのは機械でやるのと違い、流れる時間がゆっくりで、自然の中にいるという実感が持てる、豊かで楽しい時間なのである。
ある時、自然農を長くやってきたある人が、種を蒔く時や苗を植える時はそこに生えている草たちの仲間に入れてもらうような気持ちで蒔いたり植えたりする、と言っていたのを聞いてから、私もそのような気持ちでやるようになった。
一枚の田んぼや畑の中、草や虫や小動物、微生物などのさまざまな生きもののいのちが生死に巡っているところで、私のお米や野菜もその仲間に入れてもらい、そしてそのお米を食べる私も、その仲間に入れてもらう。自然農をしていると、いつのまにか私も自然の営みの一部に組み込まれ、その循環の輪の中で、生かされていることに気がつく。
大いなるその営みの中で
自然農では草や虫を敵としない。この考え方が、他の農法との一番大きな違いだと思う。
田畑に立っていると、自然は常にバランスを取るように働いていると感じる。
草も、虫も必要があってそこに存在する。
アブラムシが発生するのは、過剰な栄養を浄化してくれるため。スギナが多いのは、土壌の酸性をやわらげてくれるため。それらのことができるのだ。
自然農の田畑はいのちにあふれていてそこに立っているだけでなんともいえない心地よさが体を包む。
全てのいのちはつながり、全てのいのちは巡っている。そのことが、最近ようやくわかってきた。
自然農は、農法ではない。私たちに、その生き方を教えてくれる、道しるべだと思う。自然農に出会えた幸せを、ただただ感謝する日々である
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