在野の賢人ビル・モリソン
小祝慶子 Profile
1992年、オーストラリアでビル・モリソンのパーマカルチャーに出会い、『パーマカルチャー〜農的暮らしの永久デザイン』(原題Introduction
to Permaculture)を翻訳。薬膳養生料理と中国推掌(マッサージ)を子育て中のお母さんたちに伝える「ママのやさしいヒーリングハンズ」主宰。遼寧中医大学日本校で中医学を3年間学び、2004年国際中医師免許取得。静岡県生まれ。国際基督教大学卒業後、高校英語教諭を経て農的生活へ。3児の母。
パーマカルチャー〜農的暮らしの永久デザイン〜』(農文協)の翻訳をやっと終えて、ビル・モリソンに、その内容の最終確認をしに行った時のこと。
「机上での説明より、見た方が早いから…」と、ビルは私たちをジープに乗せて、パーマカルチャー研究所の敷地をまわってくれた。デザイン中のその敷地…とはいってもスケールが違う。
まず連れて行ってくれたのが、丘の一番上に造成中の貯水池だった。その丘の頂上から、指さして「ほら、あの東の丘にうっすらと見える茶色い横につながる筋状に見える部分がスウェイルだ…丘の中腹にも何本か見えるだろう。あの斜面を流れてきた雨水をスウェイルで貯めてゆっくり浸透させる…。スウェイルに沿って、あそこはマンゴーが植えてあるから、マンゴーにとっての水にもなるし、スウェイルがあるおかげで、降った雨が一気に丘をただ駆け下り、丘の土を浸食して土を流してしまうことがないんだ」「このレモングラスは土手が崩れないように植えたのさ。あっ、竹も植えたよ。ほら、あそこだ。(遠く先の土手を指さして)竹は、根を張って大地をしっかり補強してくれるし、竹でいろんなものが作れる。日本で、竹はさまざまなものに利用されているっていうじゃないか」そんな会話をしながら約半日かけて案内してくれた。
今まで四苦八苦して翻訳しながら「スウェイル」だとか「ダイバージョンチャンネル」など…うまく訳せずにいた単語のイメージがやっとつかめた。と同時に、ビルのダイナミックな発想と、それを実現させた生き方にグッと惹かれていた。私の心の奥底にある野性的な感覚が呼び覚まされていくのを感じた。
ジープを降りて、研究所に戻り、原本の内容をひとつひとつ確認していくうちに夕飯の頃になった。ビルが、自分が漬けたぬか漬けだと言ってキュウリを持ってきた。「日本の発酵文化はすごい。発酵文化もパーマカルチャーが大切にしたいところだ。キュウリとぬかを、発酵という過程を通してつなげると、キュウリそのもの、ぬかそのものよりも優れた栄養価を持つものになる。どうだ、俺の漬けたキュウリは!」私は、久し振りに(その時点で夫の仕事のために日本を離れてオーストラリアに来て一年経っていた)口にする『ぬか漬け』なるものに、懐かしさのあまり食らいついた。
しかし、その味が…日本の味とは違って…ただ飲み込んだ。得意気なビルは、その『ぬか漬け』をおいしそうに食べていた。私たちは幼い頃から食べ慣れていて、その発酵したものの味を舌で知っている。ビルには、ぬか漬けの到達すべき味が、経験がないゆえにわからないんだなぁ…と思った。それでも、いいものならば新しい味に挑戦しようとするビルに、やってみて学ぶ姿勢を感じた。
先達から学べ、観察せよ
内容確認がほぼ終わり、ホッとした頃、「この翻訳本『パーマカルチャー』が日本の読者に渡る日も近くなったなぁ。よかったな。嬉しいよ」とビル…。「きっと、多くの人に読んでいただけると思います。とても素敵な本ですもの。日本の多くの人がこういう暮らしに惹かれていると思います。私も早くどこかで、ビルのように暮らしをデザインしながら生きていきたいと思いました。きっと、たくさんの日本人が、これからここパーマカルチャー研究所やクリスタルウォーターズを訪れ、勉強しに来るでしょう」と、私。
その発言に対しビルは、こう言った。「そうか、歓迎するよ。でも、忘れてはならないことがひとつある。君たちは、日本の先達から謙虚に学ぶことだ。パーマカルチャーの翻訳本が出版されたとしても、それは単に、こういう暮らし方、こういう発想の『きっかけ』になるものに過ぎない。『パーマカルチャー』に載っているデザインを、遥か日本の土地にそのまま持っていっても、そぐわない。パーマカルチャーは、今では世界各地で実践されているが、中にはパーマカルチャーのシステム・倫理を深く理解せずに、表面的なデザインだけとって、作ってしまうパーマカルチャーデザイナーがいる。しばらくして、そのデザインしたものがうまく機能しないと、パーマカルチャーはたいしたことないな…と、言われてしまう。困ったものだ。その土地、その土地に合ったデザイン、農法がある。その土地固有の農法には、理
わ
け由がある。それは、人目を引くデザインではないかもしれないが、奥にパーマカルチャーシステムがきっとある…そのシステムを、認識することが大切なんだ。まず土地に立って全体をゆったりと眺めること。そして少しずつ視点を下げ、ひとつひとつの部分に向けていくこと。『観察する』ことだ。じっくりとな。そしてその土地の先輩の話に耳を傾けなさい。引き継がれてきた暮らしの文化の底にあるパーマカルチャーを感じてほしい」
ビルは、さらに続けた。「羨ましいよ。君たちの文化には、はるか昔から綿々と受け継がれ熟成されてきたものがある。オーストラリアの歴史なんて、それに比べたら、まだ始まったばかりのようなものだ。手付かずの自然は広く、そのままの形を残してくれているが、人間がこの大陸に来て手を加えたところは無残なものさ。木を切ってばかりで、まる坊主にしてしまった。腐植土はすっかりなくなっちまったよ。俺にとって、日本の暮らしの文化は魅力的だと感じているんだぞ。今なら、間に合う。そういう暮らしをしている人たちが、ひっそりと、まだ日本のあちこちにいるから。そういう貴重な暮らしの文化の先達たちが、しっかり語ることができるうちに、君たちの世代が、それを聴き、実践し、君たちの新しい発想も加えながら、次の世代に伝えていくんだぞ。伝承は、ただ形だけでなく、その内にある認識も…だ。そこが、パーマカルチャーの大切なところだ。いつか日本に行くからな」
そう言って、ビルの視線は窓を通り抜け、遠いところに流れていった。
翻訳校正の一日を終えて
ふと気づくと、すっかり外は暗くなっていた。はっとして、自分に戻ると、抱っこしていた長女櫻子(当時2歳)の寝息が、スースーと耳に聞こえてきた。時計を見ると、深夜12時を過ぎていた。
帰り際、玄関で、「今日一日、本当にありがとう。ビルの話は、心に刻んで帰ります。日本の読者にも伝えます」と言って、握手した。ビルの手は、がっしりと厚かった。
帰りの車の中、私たちはずっと黙ったままだった。浅い認識の中で浮かれていた自分を感じていた。パーマカルチャーを深く理解したいと思った。それを理解するためには、何事もじっくりと観察し、先輩の話を聴き、自ら実践し、試行錯誤しながら生きることだ…と思った。
チャレンジングな人生が、この先に広がっていくような気持ちがした。オーストラリアの広大さとビルのダイナミックな生き方に刺激され呼び覚まされつつあった私の心の底の野性的な感覚は、そのまま日本の土地で、芽を出していく予感がした。
訂正に、訂正を重ねた翻訳原文を握りしめながら、このパーマカルチャーが与えてくれるであろうものの深さに、私は、すごいものに出会ってしまった、と改めて思った。深夜、家に帰り着き、見上げた南半球の夜空には、たくさんの星が輝いていた。
安曇野パーマカルチャー塾に、小祝慶子さんがこのビル・モリソン氏の
メーセージを携えて来てくれました。
翌日、小祝さんから届いたメールをここに紹介します。
昨日は、本当にありがとうございました。安曇野パーマカルチャー塾の皆さんに出会えて、嬉しかった。あそこは、本当に、つながリング(塾ではこの言葉が挨拶代わりに使われています)の場です。私も入れてもらえて、嬉しい!
それから、あの時翻訳してよかった…って、思いました。皆さんに、あんなに喜んでいただけているなんて。私まで、嬉しくなって、ちょっと涙腺がゆるみました。
思えば、最初パーマカルチャーを訳し始めた頃、出版社も決まっていなかったし、売れるかもわからなかった。ましてや翻訳料をいただけるなんて想像もしなかった。共訳者の田口恒夫先生も、「いい本だから…素晴らしいメッセージを持っている本だから、翻訳して、日本の友だちに紹介したい」…それだけ…という方だった。
なのに、今では、パーマカルチャーのおかげで、こんなにもたくさんの出会い、しあわせな気持ちをいただけている! でも、私に限らず、パーマカルチャーは、それに関わると、さまざまなところで…人と人、人と自然、自然と自然の間で、投げかけたもの以上のものをまわらせてくれることが、本当によくあるような気がします。想像もしなかった発展・つながり・しあわせな気持ち・生きている実感…などなど!
本当にたくさんの気持ちを、ありがとう。
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