ビル・モリソンの想い
「在野の賢人」
12年前、『Introduction to Permaculture』(現『パーマカルチャー〜農的暮らしの永久デザイン〜』農文協)の翻訳をやっと終えて、ビル・モリソンに、その内容の最終確認をしに行った時のこと・・・。
「机上での説明より 見た方が早いから・・・」と、ビルは私達をジープに乗せて、パーマカルチャー研究所の敷地をまわってくれた。デザイン中のその敷地・・・とは言ってもスケールが違う。
ジープに乗って、まず連れていってくれたのが、丘の一番上に造成中の貯水池だった。
その丘の頂上から、指さして「ほら、あの東の丘にうっすらと見える茶色い横につながる筋状に見える部分がスウェイルだ・・・丘の中腹にも何本か見えるだろう。
あの斜面を流れてきた雨水をスウェイルで貯めてゆっくり浸透させる・・・スウェイルに沿って、あそこにはマンゴーが植えてあるから、マンゴーにとっての水にもなるし、スウェイルがあるおかげで、降った雨が一気に丘をただ駆け下り、丘の土を浸食して土を流してしまうことがないんだ。」
「このレモングラスは土手が崩れないように植えたのさ。あっ、竹も植えたよ。ほら、あそこだ。(遠く先の土手を指さして)竹は、根を張って地をしっかり補強してくれるし、竹でいろんなものが作れる。
日本で、竹は様々なものに利用されている・・・っていうじゃないか。」
そんな会話をしながら約半日かけて案内してくれた。
今まで四苦八苦して翻訳しながら「スウェイル」だの「ダイバージョンチャンネル」だの・・・うまく訳せずにいた単語のイメージがやっとつかめた。
と同時に、ビルのダイナミックな発想と、それを実現化させた生き方にグッと惹かれていた。
私の心奥底にある野性的な感覚が呼び覚まされていくのを感じた。
ジープを降りて、研究所に戻り、原本の内容を一つ一つ確認していくうちに夕飯の頃になった。
ビルが、自分が漬けたぬか漬けだと言ってキュウリを持ってきた。
「日本の発酵文化はすごい。発酵文化もパーマカルチャーの大切にしたいところだ。
キュウリとぬかを発酵という過程を通してつなげると、キュウリそのもの、ぬかそのものよりも優れた栄養価を持つものになる。
どうだ、俺の漬けたキュウリは!!」私は、久し振りに(その時点で夫の仕事のために日本を離れてオーストラリアに来て1年経っていた)口にする「ぬか漬け」なるものに、懐かしさのあまり食らい付いた。
しかし、その味が・・・微妙で・・・・ただ飲み込んだ。
得意気なビルは、その「ぬか漬け」を美味しそうに食べていた。
私達は幼い頃から食べ慣れていて、その発酵したものの味を舌で知っている。
ビルには、ぬか漬けの到達すべき味が経験が無いゆえに分からないんだなぁ・・・と思った。
それでも、いいものならば新しい味に挑戦しようとするビルに、やってみて学ぶ姿勢を感じた。
「先達から学べ、観察せよ」
内容確認がほぼ終わり、ホッとした頃、「この翻訳本パーマカルチャーが日本の読者に渡る日も近くなったなぁ。
よかったな。嬉しいよ。」とビル・・・。
「きっと、多くの人に読んでいただけると思います。とても素敵な本ですもの。
日本の多くの人がこういう暮らしに惹かれていると思います。
私も早くどこかで、ビルのように暮らしをデザインしながら生きていきたいと思いました。
きっと、たくさんの日本人が、これからここパーマカルチャー研究所やクリスタルウォーターズを訪れ、勉強しに来るでしょう・・・。」と、私。
その発言に対しビルは、こう言った。
「そうか、歓迎するよ。でも、忘れてはならないことが一つある。
君達は、日本の先達から謙虚に学ぶことだ。
パーマカルチャーの翻訳本が出版されたとしても、それは単に、こういう暮らし方・こういう発想の”きっかけ”になるものに過ぎない。
「パーマカルチャー」に載っているデザインを、遥か日本の土地にそのまま持っていっても、そぐわない。
パーマカルチャーは、今では世界各地で実践されているが、中にはパーマカルチャーのシステム・倫理を深く理解せずに、表面的なデザインだけとって、作ってしまうパーマカルチャーデザイナーがいる。
しばらくして、そのデザインしたものがうまく機能しないと、パーマカルチャーはたいしたことないな・・・と、言われてしまう。困ったものだ。
その土地、その土地にあったデザイン・農法がある。その土地固有の農法には、訳がある・・・それは、人目を引くデザインではないかもしれないが、奥にパーマカルチャーシステムがきっとある・・・そのシステムを、認識することが大切なんだ。
まず土地に立って全体をゆったりと眺めること。
そして少しずつ視点を下げ、一つ一つの部分に向けていくこと。
「観察する」ことだ。じっくりとな。
そしてその土地の先輩の話に耳を傾けなさい。
引き継がれてきた暮らしの文化の底にあるパーマカルチャーを感じてほしい。」
「羨ましいよ。君達の文化には、はるか昔から綿々と受け継がれ熟成されてきたものがある。
オーストラリアの歴史なんて、それに比べたら、まだ始まったばかりのようなものだ。
手付かずの自然は広く、そのままの形を残してくれているが、人間がこの大陸に来て手を加えた所は無残なものさ。
木を切ってばかりで、まる坊主にしてしまった。
腐植土はすっかりなくなっちまったよ。
俺にとって、日本の暮らしの文化は魅力的だと感じているんだぞ。
今なら、間に合う。そういう暮らしをしている人達が、ひっそりと、まだ日本のあちこちにいるから。
そういう貴重な暮らしの文化の先達たちが、しっかり語ることができるうちに、君達の世代が、それを聴き、実践し、君達の新しい発想も加えながら、次の世代に伝えていくんだぞ。
伝承は、ただ形だけでなく、その内にある認識も・・・だ。
そこが、パーマカルチャーの大切なところだ。
いつか日本に行くからな。」 そう言って、ビルの視線は窓を通り抜け、遠いところに流れていった。
ふと気づくと、すっかり外は暗くなっていた。
はっとして、自分に戻り、抱っこしていた長女櫻子(当時2歳)の寝息が、スースーと耳に聞こえてきた。時計を見ると、深夜12時を過ぎていた。
帰り際、玄関で、「今日一日、本当にありがとう。ビルの話は、心に刻んで帰ります。日本の読者にも伝えます。」と、言って握手した。ビルの手は本当に厚かった。
帰りの車の中、私達はずっと黙ったままだった。
浅い認識の中で浮かれていた自分を感じていた。
パーマカルチャーを深く理解したいと思った。
それを理解するためには、何事もじっくりと観察し、先輩の話を聴き、自ら実践し、試行錯誤しながら生きることだ・・・と思った。
Challengingな人生が、この先に広がっていくような気持ちがした。
オーストラリアの広大さとビルのダイナミックな生き方に刺激され呼び覚まされつつあった私の心の底の野性的な感覚は、そのまま日本の土地で、開花されていく予感がした。
訂正に、訂正を重ねた翻訳原文を握りしめながらこのパーマカルチャーが与えてくれるであろうものの深さに、私は、すごいものに出会ってしまった、と改めて思った。
見上げた南半球の夜空にはたくさんの星が輝いていた。
小祝 慶子

安曇野パーマカルチャー塾にビルモリソンのパーマカルチャーを翻訳した小祝さんに来て戴きビルモリソンからのメーセージを伝えて戴きました。
以下小祝さんからのメーセージです。
パーマカルチャー塾の皆さんに出会えたのも、嬉しかった。 あそこは、ほんとうに、つながリング(安曇野パーマカルチャー塾ではこの言葉が挨拶代わりに使われています。)の場です。 私も、入れてもらえて、嬉しい! それから、13年前のあの時翻訳してよかった・・・って、思いました。 皆さんに、あんなに喜んでいただけているなんて・・・。 私まで、嬉しくなって、ちょっと涙腺がゆるみました。
思えば、最初パーマカルチャーを訳し始めた頃、出版社も決まっていなかったし、売れるかも分からなかった、ましてや翻訳料をいただけるなんて想像もしなかった。田口先生も、いい本だから・・・すばらしいメッセージを持っている本だから、翻訳して、日本の友達に紹介したい・・・それだけ・・・という方だった。 なのに、今では、パーマカルチャーのおかげで、こんなにもたくさんの出会い・幸せな気持ちをいただけている・・・! でも、私に限らず、パーマカルチャーは、それに関わると、様々なところで・・・人と人、人と自然、自然と自然の間で、投げかけたもの以上のものを廻らせてくれることが、ほんとうによくあるような気がします。 想像もしなかった発展・つながり・幸せなきもち・生きてる実感・・・・・などなど!
本当に沢山の気持ちを、ありがとう 小祝慶子
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