ありがとうございました
穂高の自然の中で「サティシュ・クマールさんを囲む3日間」は、透明感に溢れる美しい時間でした。
皆様に本当に感謝しております。
サティシュさんのお母様の手仕事や日々のあり方、ピースウォーク、スモールスクール、ほか
すべてが心に響くお話でした。
同じ志の方々に囲まれて力強い推進力もいただきました。
少人数でサティシュさんから直接お話を伺いディスカッションする、という貴重な体験は、自分の中だけに留めず、
たくさんの人と共有して行きたいと思います。
先ず、友人たちに「君あり、故に我あり」を手渡しながら少しずつ話しております。
青梅にある自然農の畑に今年はさらに元気な種を植え、土と親しみ、大好きな手仕事と料理作りをいつものように普通に続けて行きたいと思います。
私を含めて、都会で暮らす人々は、毎晩エネルギーを満たすことに少しの配慮と工夫が必要と感じます。
都会周辺に住みながらも、土・心・社会のつながりを大事に、また「種」の意味を思いながら倦まず弛まず、人と対話して暮らし、また、自然の中へ出かけて交流します。
子どものための自主制作ドキュメンタリーは、今回お陰様でたくさんの学びを得たのでより深いところへ到達できるよう、努力し続けたいと思います。
シャロムという場でこの会が開かれたことも、意味があったように思います。
たくさんの配慮をしてくださった臼井さんはじめ、身体が喜ぶ美味しい食事を作って下さったスタッフの皆さんにも心から感謝です。
より深い成長を願う人たちが、これからもシャロムを訪れることと思います。
サティシュさんが教えてくださった「ネイティブアメリカン祈りの歌」は、十数年前に知人に教えてもらった「ナバホの祈りのことば」とほぼ同じで嬉しかったです。
毎晩、音読しております。
永遠の生命のうちに 吾はたゆとう
至福のうちに 吾はたゆとう
眼前の美しきものとともに吾はたゆとう
背後の美しきものとともに吾はたゆとう
足下の美しきものとともに吾はたゆとう
頭上の美しきものとともに吾はたゆとう
吾をとりまく すべての美しきものとともに吾はたゆとう
重なる齢とともに吾はたゆとう
様々なレベルの感動と感謝の気持ちは、まだまだ書き尽くせませんが
ともかく!送らせていただきます。
またご連絡させていただきます。
小出
おかげさまで、感動いっぱいの密度の濃い、3日間を過ごすことができました。
出会えたすべての人に感謝です。ありがとうございました。
employment(雇用)よりもlivelihood(生業)という話が印象的でした。
employmentを人のためにする仕事、livelihoodを自分のための仕事と考えたとき、
私にとっても、気に掛かる追求すべきテーマなのです。ガンジーは晩年、カデ
ィー(手紡ぎ、手織の衣類)の販売を辞め、自分で着るためのカディーに力を入
れます。ガンジーもlivelihoodが大切だと考えていました。でも、そういう方向
に一歩踏み出すことは、ものすごい価値観の転換を迫られます。紡いで織って作
品を作っていると、「いくらで売れますか」とか、「十分な収入が得られます
か」とよく聞かれます。そして、「売るつもりはないです」というと、不思議そ
うな顔をされます。「じゃあ、何のためにやっているのですか?」となるのです。
綿に興味を示す人の中には、作品を販売したり、あるいは講習会をビジネスと
してやりたいという人が多いです。どうして、ただ、紡ぐこと、織ることに満足
できないのでしょうか?そういう私も、ビジネスとしてもっと手を広げませんか
という誘惑には、いつも足下を揺さぶられています。
「君あり、故に我あり」の中で、「私は仕事が楽しいの。・・・ミシンが仕事
を減らすというのは、単なる錯覚に過ぎないかもしれない。年に一つか二つのシ
ョールを作る代わりに、年に10ものショールを作る羽目になって、材料をもっと
たくさん使うことになるかもしれない」という、サティシュさんの母の言葉が紹
介されています。
仕事がemploymentであれば、多くを稼ぐことが重要になるから、年に10枚シ
ョールが作れることが良いことかもしれません。でも、大切なのは、心を込めて、
よろこびをもって仕事ができること。稼ぐこと=仕事ではないというのが、サテ
ィシュさんの主張なのでしょう。大切なのはショールを作り、それを用いること
であって、販売したり、ビジネスに従事する必要はない。そうすることで本来あ
るはずのよろこびが失われるということなのでしょう。
となれば、livelihoodに向かうということは、主婦が主婦であることに誇りを
取り戻すことだと思うのです。「電話をかけても留守のことが多い、何がそんな
に忙しいの」と私はよく、母に言われます。家にじっとしていてもつまらないと
いう価値観に自分自身がとらわれているなと感じます。どうして母はいつも家に
いて満足だったのだろう?どうして自分も含めて、今の主婦の人たちは、主婦で
あるだけではだめだと思いこむようになってしまったのだろうか?そして、先ほ
ども書きましたが、何らかの形でビジネスをしたい、収入を得たい、稼げなけれ
ば自分自身に価値が見いだせない。そういう思いに捕らわれてしまっているのは
なぜか?みんなが幸せになる生き方とは?、社会とは? 追求していきたいと思
います。
所有という概念に挑戦しなければならないと、サティシュさんは言っておられ
ましたが、これもlivelihoodに関係してくる、おもしろいテーマだと思いました。
サティシュさんは、自分を大切にすること。自分自身に返していくことも大切
と言われていましたが、今ひとつイメージがつかめないでいました。でも、長野
の講演会で、サティシュさんの日課を聞いて、なるほどそういうことだったのだ
と思いました。「朝、ゆっくりとお茶を飲んで、それから1時頃まで編集の仕事。
3時までは昼食と昼寝。その後はガーデニングに散歩。夕食後は読書」というゆ
ったりとした、生活です。午後も夜も仕事をすれば、もっといろいろなことがで
きるだろうにと、浅はかな私は思ってしまいますが、1時までしか仕事ができな
いとわかっているからこそ、集中してできるのかもしれません。それだけの時間
で、あれだけの活動をされているのですから・・・
私も、サティシュさんのそういうところを見習いたいなと思いました。
最後に、すてきなお宿を会場として提供してくださった臼井さん、本当にあり
がとうございました。のどかな景色を眺めていると、部屋の中で過ごしていては
いけない、自然を満喫しなければもったいないと、つくづく感じました。またお
店にはすてきな商品がいろいろと並べられているのに、店番がいないことに、あ
あ、ここまで信頼してくださっているのだなと、感動しました。サティシュさん
の旅にも通じる、まずこちらから人を信じることを教えていただきました。多く
のことを学ばせていただいた、貴重な3日間でした。本当に、本当にありがとう
ございました。 片山
自然は無限であると思い、人の手には限界があると思って、労働の節約を目指した。そして、機械が登場し、廃棄物が生じるようになった。手作りは廃れ、破滅に向かっている。手業が衰退している。
時間は永遠なのに、そして人間の手も永遠なのに、その永遠なるものを節約しようとしている。
石油は再生不可能、そのなくなるもの大量に消費している。
手仕事は、単にものを作るだけではなく、精神的な行為である。創造性のたまものである。参加する行為である。
一方、大量生産には、芸術も工芸的要素もない。美しさもなく、地球を破壊している。
化石燃料、ピークオイルに直面している。
危機ではあるが、危機の機は機会の機、つまり危機はチャンスでもある。私たちが目覚めるチャンスと言えよう。
大きくて速いのが良いという価値観が大勢である。手作りは遅れたこと、大変なこと、貧乏になることというイメージがある。エコで持続可能というのは困難なこと、という恐怖もある。だから、技術革新によって危機を乗り越えるしかないと、思いこませようとしている。
これに対して、私は今よりももっと良い生き方があるという提案をしたい。簡素であるけれども、エレガント、芸術、工芸、幸福がそこにはある。
産業界は、お金をもうけるという動機で動いている。
手仕事は、精神的営みであり、愛を込めた仕事となる。
だから私は、雇用よりも生業を求める生き方が大切だと思う。雇用だと、雇い主に命じられて働くが、生業であれば、自分の好きなように時間が使え、自分が主人公となれる。
プロセスが大切である。良い結果をもたらすことが目的ではない。正しい生き方だから、このように生きるのだと捉えることが大切だ。
SOULを耕すこと、友情、親切、美、寛容。名声を得たいというエゴを抑え、美や寛容に至るソウルを高めていくことだ。
もちろん、エゴが全く要らないというわけではない。しかし、必要なのは短期間だけだ。それは、種の殻と同様である。種に殻がないと種として存在できないが、いつまでも殻がついたままだと芽を出すことができない。種は土に蒔かれたら、殻を捨て土と一体となって行かねばならない。
人間も同様である。人間は他との関係の中で生きる存在であるが、エゴは我々を他から切り離す。であるから、ある時期が来たらエゴから離れることが必要だ。エゴから離れることが、自由を得ることであり、悟りである。
思いやりの心
温泉の施設は残念だった。水飲み場もなかった。日本の伝統的建造物の歴史に学び、伝統的建て方が存続することを希望する。温泉施設を設計した人には、何のためにこのような施設を建てたのかを聞きたい。利益を得るためだろうか。しかし、人々や大地に奉仕するということが、利益の追求よりも先に来なければならない。
もし、無知からこのような施設を建てたのであれば、教えてあげればよい。また、利益の追求であるならば、それに対して挑戦していくことが必要だ。そして、商業主義的ではない、本物の建物を私たちの方で建てればよい。
怒りはいらない。
必要なのはコミュニケーションである。非暴力的なコミュニケーションの手法を向上させることだ。心にふれる、届く言葉掛けである。どのようなかたくなな心にも、どこかに柔らかい場所がある。その柔らかなスポットを探すことだ。建物にはいるのに、固い壁をうち破ってはいることはできなくても、ドアや窓からなら入れる。同様にその人にとっての、ドアや窓を探すのである。
さらには、結果にとらわれないことだ。成功することにとらわれてはいけない。働きかけることができた。それだけで十分である。
悪いものを壊すよりも、本物である、別のものを作って提供することだ。
太陽や雨は、我々に多くの恵みをもたらすが、我々は太陽や雨に対して、何もお返しをしていない。何の見返りも期待せずに、太陽は日々我々を照らしてくれている。
だから、我々もエゴを手放して、謙遜を学ぶことだ。・・・お陰様・・
「我思う故に我あり」には、関係性というものが存在しない。
仏陀は、屋外で、木の根本で、この世の現実、つまり、依存しあっている、So
Hun、「君あり故に我あり」という悟りに達した。
忍耐
まず、聞くことである。そして友情を培ってから、語るのがよい。
断食
自己犠牲の行為。かたくなな人にその姿を見せることで、相手が恥じ入り、哀れみの気持ちが生じてくる。
正しいことだからやっている。成功するためにやっているのではない。
相手を変えるのではなく、コミュニケーションを図る。
ガンジーは、簡素な生活:糸車と農業という生活を集団で行ってきた。長期間の訓練を経ての非暴力の実践。
非暴力は、生き方である。良い暮らしという暮らしを実践すること。テクニックではなく、生き方である。結果ではなく、日々のプロセスである。
雇用よりも生業について
自分が人生の主人公となること。そのように挑戦してみること。自分自身を信じること。そのような生き方はリスクを伴うが、ドアを探すこと。完全を目指さないで、方向性を考えるのがよい。私が仕事のために存在するのではなく、仕事が私のためにあるとなったときに、よろこびを味わえる。
間に合わないのではないか?
時間がなくなりつつあるのは、工業文明の方である。工業文明は生き延びることができない。工業文明の崩壊をおそれる必要はない。ライフボート(救命ボート)を作って、用意しておけばよい。
危機に対してパニックに陥るとすれば、それは恐れに突き動かされているからだ。これでは、みんなバラバラだし、弱い。むしろ、地球・自然・人々を愛する気持ちを動機にすると良い。
シャロームのような場で、1万人の人々に訓練を施すことができれば、大きな力となるだろう。
我々の時が近づいている。準備をしよう。
対立するのではなく、包み込むプロセスだ。
自然から学ぶこと。自然に敬意を払い、好奇心を持つ。自然の神秘にふれると人は謙遜になる。ところが、自然について学ぶ姿勢だと、自然を人間のために利用する方向に進む。スモールスクールは、11歳〜16歳。自然の中に出かけている。菜園、パンを焼き、料理をする。子どもは、その中に知識をどんどん詰め込むための空っぽのかごではない。徐々に開かれていく種子である。もの作りを通して、生きていく準備をするのが学校である。就職の準備をするのが学校ではない。
百姓とは、百の仕事をする人。すばらしいと思う。
人の身の丈にあった教育が大切である。
今ここを生きる
結果にとらわれるとすれば、それは今ここを生きていないからだ。今ここが空白になっているからだ。だから、常に、自分は今ここを生きているだろうかということに意識を向けることが必要になってくる。
今、種を蒔いている。ならば、あとは大地を信頼するしかない。信頼がポイントだ。
正しいことをやったのであるならば、結果がどうなろうとも良いではないか。
怒りは、恐怖から生まれる。そして恐怖は支配欲の結果である。支配したいと思うから、支配できないのではないか、思い通りに行かないのではないかという恐れが生まれ、思い通りに行かないことに対する怒りが生じるのである。だから、支配したいという欲望をあきらめることが必要だ。支配するのではなく、プロセスに参加するという姿勢を持つことだ。
怒りがあるなら、自分が今怒りを抱いていることにまず気づくことだ。そして、気づいたなら、その場から抜け出すことだ。散歩に出かけても良い。
怒りは、相手ではなく、自分自身を傷つける。だから怒りをもっと肯定的な情熱、親切心に換えていくことが必要だ。
スモールスクールでは、家の設計、修理を教えている。設計や建てることに参加することを重視している。家が均一化していることは問題である。また、利用しきれていないことも残念である。例えば、日本家屋では、朝起きて布団をたためば、そこが居間になる。一部屋がいろいろな使われ方をしてきた。ところが、今はベッドルームは夜寝るときだけ使って、居間は昼間だけ、しかも家人が留守の間は使われない。せっかく建てた家、多くの建材が使われているのに、こういう使い方は非常にもったいない。
フードマイレージということが言われるが、建材についてもマイレージを考える必要がある。地元で手に入るもので、家を建てるのがよい。
私は今の家に30年住んでいる。今後引っ越したいとは思わない。そこで菜園をしているし、友人もいる。そこに根を下ろしており、そこに所属感がある。旅行するのはかまわないが、戻ってくる。定住すると決めた場所に長く住むことが大切だ。
ソフトランディングが可能か。
ドライバーに知恵がある場合には、可能だが、現状は、目をつむって、コースを変えない状況だ。アドバイスを聞こうとしない。墜落・破滅を避けることはできないだろう。だから、別の生き方を構築していくことがよい。そのためには、栽培や建造さらにそれをいかに補修していくかの技術を身につけていくことだ。技術があれば、破滅が訪れたときでも生き延びることができる。
同時に、リーダーたちに我々の言葉に耳を傾けてくれと、圧力をかけていくことも必要だ。そうしながら、別の生き方を構築していくのである。
内なる平安と外部の平和はつながっている。すべてはつながっている。
心の中が平和でないと、心の中のものが、言葉や態度になって外側に出てくる。
心の中が平和でないと言うのは、支配したいという気持ちを持っているからだ。
一人一人が小宇宙である。
全世界が、一つの砂粒の中に存在している。
無限は手のひらの上にあり、永遠は1時間の中にある。
自分が、神・宇宙・聖なることを認める=平安である、平和を自分の中に作る。
地球は、大気、土、火、水、想像力、創造性でできている。すべて一人の中にある。
このような自分の存在を過小評価するのが劣等感であり、その反対がエゴ。
これらは、自分自身に対して戦争を仕掛けるようなもの。
エゴや劣等感を乗り越えるときに、つまり、私はすべてだと気づくときに、私は本来の私になることができる。
心に葛藤があるときは、シャンティーを3回唱えると良い。自分との平和。宇宙との平和。社会との平和である。
ヒンズー教徒として、でかければイスラム教徒に出会っただろう。人間としてでかければ人間に出会う。
真実よりも非暴力の方が重要である。真実はたくさんある。どれも正しい。そういう立場で非暴力のやり方で主張することだ。なぜなら、暴力的な言葉は暴力的な行動につながる。非暴力は生き方である。ガンジーもアシュラムで、非暴力の生き方を人々とともに実践していた。だから、あのような働きができた。
世界中の国で憲法9条を取り入れると良い。各国でそのような働きかけをしていくことで、日本に対しても、憲法9条を守るべきだという圧力を与えることができる。
恐怖から自由になること。
種はギフト:インドの言葉では、種という言葉と贈り物という言葉は同じ言葉である。
長野講演会。
1999年以来の来日だが、そのころと比較して大きな変化が起きている。
一つは経済が停滞し、失業や自殺が増えていること。これがネガティブな変化であれば、もう一つは、環境問題やスピリチャル、持続可能な生き方への関心が高まっているというポジティブな変化もある。
経済の停滞は、好ましくないと思われるかもしれないが、人々が目覚めるための良い機会とも言える。
経済の停滞がなければ、愚か者の天国にいたるだけ。
経済危機のおかげで、我々は、資源には限りがあるという本質的な危機に気づくことができた。天然資源を自動車、コンピュータ、ガラス、コンクリートに変えてきた。しかし、それらを今後も大量に作り続けていくことは不可能である。良いことも、ある限度を超えると負の結果をもたらすのである。経済の成長は、ある限度を超えると人間にとって重荷となる。我々を養う食物も、過度に食べると肥満となって健康を損なうように、経済的肥満の状態に我々はあり、その結果、満足することが減り、不幸が増大している。
我々は、社会を作り直す必要がある。
自然が200万年かけて蓄積したものを、200年で使い果たしている。
暮らし方、社会の仕組みをもう一度吟味し、評価し直す必要がある。
地球を大切にすることを第1とする設計でなければならない。なぜなら大地は、あらゆる命の源だからだ。だから、どのようにしたら地球を大切にできるかを学ばねばならない。
これまでの考え方は、自然をあたかも奴隷のように見なしていた。人間以外の種は人間に仕えることが期待されていた。しかし、自然と人間は一体である。
自然が有用だから、大切にしようという考え方は、自然に対して人間が主人として振る舞うことであり、人間中心の自然観である。
すべての種に存在する権利がある。川はダムにじゃまされないで海に達する権利がある。
ディープエコロジー
地球規模の危機だという恐怖に駆られて、何とかしようというのではない。パニックから決定しても、良いことは出てこない。
自然界と一体となった本来の生き方を作り出さねばならない。
公正で敬う気持ちに基づき、
地球を愛し、人々を愛することから。
恐怖ではなく、愛を動機として進む。
soil, soul, societyに対する愛を提案したい。
3つのものを並べて表現することは、以前よりよく行われている。
フランス革命の自由・平等・博愛は、スピリチャル、エコロジーの側面が欠けている。
キリスト教の、父・子・聖霊は、女性、エコロジー、社会的側面が欠けている。
ニューエイジの、マインド・ボディ・スピリットは、個人的で、社会性、エコロジーがない。
そこで、soil,soul, societyである。
soilとは、全宇宙である。自然界の全てである。太陽、月、地球、水・・・
われわれの、土への態度は、まるで戦争を仕掛けているようだ。
動物、森林、海に対して残虐行為を働いている。
農薬で土壌を汚染している。これらをやめないといけない。
自然界と平和を築くこと。それなしに人間の未来はない。
soul soilを愛することが、soulへの愛につながる。
物を所有するという考えによって、われわれは自分が何者であるかを忘れている。
忙しいと、人間の魂を忘れてしまう。
時間を取り戻して、ゆとりを取り戻して、魂を取り返さないといけない。
お金は少なくても、時間がたっぷりあるほうがよい。
大切な人々、大地との時間をたっぷりとろう。
お金のために働くことは、1週間に3日で十分だ。
そうすれば、失業する人もなくなるだろう。
society 自分の魂を大切にすることは、社会=人間のコミュニティを大切にすること。
技術が進歩しても、世界の半分が飢えている。
貧困は暴力である。
土地へのアクセスを全ての人に保障することで貧困を取り除くべきだ。
所有権という考えにチャレンジする必要がある。
少数の人々がどうして、資源を独占できるのか?
太陽を所有できるだろうか。神からの贈り物である。
所有という概念から、関係性という概念へ移っていくことだ。
われわれは自然界に所属しているのであって、自然が我々のものではない。
よろこびと幸福に満ちた社会を作っていこう。
廃棄物が出ないようにすることが大切。
会社が自然に戻らないようなごみを出すことを禁止する法律を作ればよい。
エレガントで簡素なライフスタイル。よろこびがあって、エコロジカルの生き方。
日本人は、それを外国に学ぶ必要はない。
わび、さびという日本文化の中にすでにある。
簡素な美しい暮らしをしよう。
よろこびとは?
内面が満ち足りた状態。
堕落的快楽は、外側からやってくる。
インドのことばで、よろこびはアーナンダという。僧侶になると名前にアーナンダがつく。
ヨガナンダという言葉もある。ヨガをやっても、そこによろこびがなければ意味がない。
雇用よりも生業に喜びがある。生きる意味を見つけ、それに従って生きるのが本来のよろこびである。他者に親切にしたり、仕える中に、心からのよろこびが見出される。
サティシュさんの日常生活は?
6:30〜 瞑想
7:00〜 お茶、スピリチャルな会話。事務的用件は語らない。
〜13:00 書斎で編集の仕事
13:00〜15:00 昼食と昼寝。 電話、面会一切なし。
15:00〜 ガーデニング 散歩
料理・夕食
読書
23:00 就寝
週に各1日ずつ、マッサージ、家族会議、カレッジで教えるが入る。
何をするにしても、心を込めて、今に集中すること、大切に扱うこと。
瞑想と生活に区別がない。
心がよそに飛んでいない。
音楽について
音を出すことだけが音楽ではない。生活それ自体が音楽。生きることが芸術である。
自分自身や宇宙からはずれて、歌を歌っていないか?
音楽を全ての人の生活にとりいれよう。プロの人だけのものではない。
アーティストは特別な人ではなく、全ての人が特別なアーティストである。
直線と循環について
直線型:ヨーロッパの合理主義、二元論、物質と精神に分ける。
進化、発展、開発
循環型:東洋、先住民文化
命の循環・soil, soul, societyもその輪の中にある。
1つのことに3つの側面がある。
ガーデニングは、魂を養う訓練でもある。
進歩というが、どこに向かっているのか?破滅に向かっての進歩ですか?
経済成長の結果の貧困
廃棄物の問題。
だから、循環型でないと、エコロジーではない。
戻していくことが大切だ。コンポスト。
いただいたら、返していくこと。
ホンダ・トヨタ・ソニーには、これがない。
環境運動でも、与えてばかりでは疲れてしまう。与えたら、受け取ること。魂に返していくことが大切。社会から恵みを返してもらい、自分が豊かになることが必要。
自分自身を大切にすることは、自己中心ではない。
直線型はキリスト教の影響か?
循環型の考えは、自然と接している文化に根ざしている。ヒンズーでは、学校のことを森の文化と呼んでいる。森の中では、自然が循環していることを見ることができる。
自然から離れると、人間の頭の中だけで思考するようになる。その結果出てきたのが、合理性、科学などの直線型思考だ。
キリスト教の影響というよりも、自然から離れたことが大きいだろう。キリスト教以外の文化圏でも、東洋でも、自然から離れるにつれて、直線型の考えにとらわれるようになってきている。
自然の中に立ち戻ることが必要だ。
介護について
介護などをプロの専門家に任せてしまうことに問題がある。そこに、不満の種子がまかれている。障害者など、ハンディキャップのある人に対する思いやりを社会の中で育てていくことが必要。そして、地域で世話をしていくことが大切である。もちろん、必要なところで専門家の手助けを求めることはあっても良いが、専門家に全責任を負わせるのは間違っている。
以上の点を踏まえた上で、介護の仕事を高く評価し、尊敬するようにならないといけない。コンピュータを作るよりも、人間に関わる仕事の方が大切である。
今は、テクノクラート(技術専門職)が、社会システムを支配している。このようなテクノクラシー、技術者支配の社会から、バイオクラシー(生命中心)の社会へとして行こう。生命に仕えることが第1であって、コンピュータや自動車は第2でよい。
恐れについて
提案しているのは、より良い生き方である。
ここに2種類のモデルがある。
1つは、醜い商業主義のモデル。ストレスが多くつまらない。派手だけど表面的
もう1つは、美、自然、人間愛にあふれるモデル。
私は、2番目のモデルを実現しようと言っている。
ここに恐れることは何もない。
自然を信頼することだ。
1粒のりんごの種が、木となり、何千もの実をつける。
人間の手が、善光寺を作った。
恐怖はわれわれを牢獄に閉じ込める。
自由な社会を想像し、そのような想像力を高めることで、力が解き放たれるだろう。
技術を否定しないが、技術は人間に奉仕するべきで、人間が技術の奴隷になっていはいけない。
自然を大切にできれば、自然は私たちを大切にしてくれる。
ストレスに満ちたつまらない暮らしを辞めて、全体的な良い暮らしをしよう。
お金から自由である方法も学ぼう。
お金が交換の道具であればかまわないが、今では手段が目的となってしまっている。
恐れないで、自然を信頼しよう。人間の創造性も信頼しよう。
人間はよりよい社会を作る能力を持っている。
人間は、人間らしく、自然界と調和して生きることができる。
Well-being is better than wealth.
際限なく多くのものを所有しようとすることよりも、生活の質が大切だ。
技術を消し去るのではなく、バランスをとること。質と量のバランスである。
katayama 片山さんのweb